「おはようございます。美香先生ですよ〜」
ここは公民館の一室。月に一度の3歳児お遊び会『ひよこぐみ』体験入学の日だ。3歳になったばかりの木実と小雪も、保母さんに連れられてやってきた。小雪は、初めて見る大量の自分たちと同じくらいの幼児にびっくりしていた。いつも自分たちが暮らしている場所には大人しかいない。それが今日は何十人もの知らない顔の3歳児が、公民館の部屋中にわらわらと勝手に走り回っている。それをぐるりと取り囲むようにして、母親らしき大人の群れ。皆一斉に知らない機械を持って、それで自分のこどもを追いかけている。まるで目の部分がその機械になってしまったように見える。
おまけに銀の髪と紅の目をもつ小雪と、光の加減によって無限の色を持っているように見える髪と眼をもつ木実は、ただでさえ目を引く。今もこっちを見てこそこそと内緒話をしている。何を話しているのかはわからないけれど、小雪はそこから敏感に微弱な悪意のようなものを感じ取った。
こわい……。
おもわず帰ってしまおうかと思ったその時、
「ゆきたん」
隣にいた木実が、小雪の手をぎゅっと握った。
「だいじょぶ。いっちょ」
「ん」
小雪も木実の手を握り返し、そうして二人で顔を見合わせほおおっと笑った。
そうだった。木実がいてくれる。いつもいっしょの木実がいれば、それは家にいるのと同じだ。
先生が声をかけると、みんなそれなりに先生を注目する。何度か声をかけ、どうしても走り回っている子は、しびれをきかせて、母親が出てきて
「ほら、先生の方見て」
と注意を向け、どうやらみんなが静かになった。
「今日は新しいお友達がきてくれましたー」
二人は先生に背中を押され、並んでみんなの方を向いた。木実のブルーのスモックには『このみ』という名札、小雪のピンクのスモックには『こゆき』という名札が付けられている。先生はなんのためらいもなく
「このみくんと、こゆきちゃんです。みんな仲良くしてね」
と紹介した。
「はーい」
「はーい」
みんな素直にそれに従う。
「じゃ、このみくんとこゆきちゃん、ごあいさつ、できるかなー?」
人の前で話すのは苦手、を通り越して経験がない。小雪はおずおずと木実の後ろに隠れた。後ろからきゅっと木実のスモックを掴む。真っ白な肌が、わずかに紅潮している。瞳は不安げにあちこちにさまよい、木実の背中でぴたりと止まった。
「おやー、こゆきちゃんは恥ずかしがりやさんみたいですね」
木実は小雪をかばうように前に一歩踏み出した。自分だってこんな大勢の前で話したことなんかない。でもここは、自分が頑張るしかないと、唇をくっとかみしめる。だって自分は小雪を守るためにいるんだから。
「このみです」
いつもより一音一音しっかりと発音できるように気を使い、それだけ言ってぺこりと頭を下げる。小雪も一拍置いてぺこりと頭を下げた。肩まで伸びた銀の髪がさらさらと音を立てた。見ている母親たちからほおとため息が漏れた。
「奇麗な子ね」
誰かが言うのが聞こえ、木実は誇らしくなった。
『ぼくの、ゆきたんなんだから、あたりまえだ』
そんな事を思う。
『ゆきたんは、いちばんきれいなんだ。でもってかわいくってやさしくって……それから、えーとえーと、とにかくせかいいちなんだ』
もっともこの時の木実には『世界』というのがなんだかよく分かっていない。だけど、何かを誉める時に誰かが『世界一』という言葉を使うのは聞いた。その時から、木実の中では。小雪は『世界一』ということになった。
その時だった。
「こゆきちゃんのかみのけ、しらがー」
とひとりの子どもが言った。
場が一瞬で凍りつく。おとなたちが、とりなす言葉を探しているうちに子どもたちは次々に騒ぎ出した。
「ちらがー」
「しらがー」
「めもへん」
「あかーい」
「うさぎさん」
「うちゃぎー」
騒ぎはだんだん大きくなり、とうとう小雪のそばまで来て、その髪の毛を引っ張ってみる者すら出た。小雪はびっくりしてその場に固まってしまった。
「わー。ほんものー」
小雪はなす術もなく、じっと耐えていた。どうして自分がこんな目に遭っているのか分からない。この子は自分のことが嫌いなんだろうかと思うと、胸がしくしくと痛んだ。
「ちゃわんなっ」
すぐに気がついた木実が、その手を払いのける。まだ力の加減のわからないその掌は、小雪を守りたいばかりに力が入りすぎ、その男の子を殴り倒してしまうような形になった。男の子はその場に倒れ、痛さというよりも驚きで、わあわあと泣きだしてしまった。
場は騒然となった。 男の子の母親はあわてて走りより、きっと木実を睨んだ。
「ぼく、わるくない」
木実はきっぱりと母親を見て断言した。その両手は、小雪をしっかりと抱き抱える。
「ちょのこ、ゆきたん、いじめた」
男の子は顔を真っ赤にした。上手く反論できずに、口をぱくぱくと開け閉めする。
「でも」
木実はまだ小雪を抱えたまま言葉をつづけた。
「ごめんなさい」
そう言って首だけをぴょこんと下げる。
「……ま、まあ……」
母親は、自分の子どもが、いつもついおせっかいをし過ぎるのは知ってはいた。今もちょっと目を離してはいたが、その間に何かやらかしたのだろうとは思っていた。
「これから、気をつけてね」
「あい」
木実はまた頭を下げる。自分は悪くない。でも、自分が謝って小雪が傷つかなくて済むならば、そんな気持ちだった。
「はいはい。みんな、仲良くね」
美香先生が、ぱんぱんと手を叩く。
「じゃ、仲直りしようね。はい、二人とも、握手」
木実とその男の子の右手同士を取って、握手をさせる。
「ごめん」
「うん」
まだ言葉はあまり達者でない二人だ。それだけ言葉を交わして、男の子は母親に連れられてもとの場所に戻って行った。あたりには、気まずい空気が残る。
とは言え、気まずい空気を引きずるのは大人だけだ。何しろ3歳の幼児。すぐに忘れて、元通りになる。
「こゆきちゃん、こゆきちゃん」
女の子が二人、小雪の前に立った。小雪はまた何かされるのかと思ってびくりと体を震わせた。
「あちょぼ」
小雪は救いを求めるように木実を見た。が、二人の保母が、木実の腕を優しく小雪から外し、
「ほら。たまには別のお友達と遊んでみようか」
と声をかけた。木実は、はじめてあったのになんでともだちなんて言うんだろうと思ったけれど、そこは上手く言葉にならない。あわあわしているうちに、小雪は女の子たちに両手を繋がれて、部屋の隅の方に行ってしまった。この時木実は、早くちゃんと自分の言いたいことを、きちんと言葉にして相手に分かってもらうようにならなくては、そう心に誓った。その誓いを木実にさせるために保母がそういう行動を取ったのだとしたら、それはかなり成功したと言える。
「木実くんも、誰かと遊んだら? 楽しいよ」
「いい」
自分が楽しかろうがなんだろうがどうでもいい。小雪といっしょじゃなければ、楽しいはずなんかないのだから。
しかしその時、さっき殴り倒した男の子がやってきた。
「あちょぼ」
と片手を差し出す。木実はそっぽを向いた。
「木実くん。ほら」
保母が木実の背中を押した。
「いってらっしゃい」
男の子は黙って、木実の手を取った。
「なにすんの」
木実は一応聞いてみた。
「たたかいごっこ」
彼が答えた。
「なにそれ」
そんな遊びは聞いたことがなかった。
それには答えず、彼は木実を男の子たちの集団の中に連れて行った。木実は途中で目の端でちらりと小雪の様子をうかがい、
「よかった」
ほっと胸をなでおろす。
「いじめられてない」
同時に胸がちくりと痛む。なんでだろう? 不思議に思ったけれど、答えは出ない。
彼は説明を始めた。
「まず、てきとみかたにわかれるんだ」
てき? みかた? なんのことだろう。初めて聞く言葉に胸騒ぎを覚えた。この後ずっとその言葉に縛られていくことになろうとは、まだ予想もしていなかったけれど。
「またね、こゆきちゃん」
「ん」
「またね」
「ん」
かわるがわるさようならを言う女の子たちに、小雪は頷きながら思っていた。きっともう、ここに来ることはない。どうしてかわからないけれど、そう思った。『またね』と言ってくれる子どもたちにそれが申し訳ないような気がした。
帰り道、手を繋いで隣を歩く二人に保母が声をかける。
「木実くん、何して遊んだの?」
「たたかいごっこ」
彼から聞いた言葉をそのまま告げる。結局何が楽しいのかよく分からない遊びだったけれど。
「あらー、いいわねえ。小雪ちゃんは?」
「おままごと」
「楽しかった?」
小雪は戸惑った視線を向ける。
「楽しくなかった?」
「わかんない」
「わかんないの? 困ったわね。木実くんは?」
木実はふるふると首を横に振る。
「楽しくなかった?」
「ゆきたん、いなかった」
「そうねえ」
保母は考えて、言葉を選び選び答える。
「違うお友達と遊ぶために来たんだものねえ。しょうがないかな」
「いらない」
木実は訴えるように保母を見上げる。
「え?」
「ちがうおともだち、いらない。ゆきたんだけで、いい」
「でもねえ、木実くん」
「やだ」
「他のお友達もいた方が……」
「やだ。ゆきたんが、ちがうおともだち。やだ」
自分が何を嫌がっていたのかが、木実の中で明確になった。小雪が、自分以外の誰かと自分の見えないところで遊んでいるのが嫌だったんだ。
握った手に力を込める。小雪も同じように握り返してくれたのを、きっと小雪も同じ気持ちなんだと心を強くする。
「ゆきたんも、ぼくだけ。ぼくも、ゆきたんだけ」
「でも……ねえ……」
「ね、ゆきたん」
小雪はその時わかった。さっき、もうここには来ないだろうと思ってしまったこと。それはこのせいだったんだ。自分は木実と離れてはいけない。いっしょにいないと、体が半分になってしまった気がするから。
「あい」
はっきりと頷いて、二人はまたにっこりと笑った。
「仲が……良すぎるような気がします」
その夜、二人が眠ってから、保母は上司に報告した。
「良い、事だろう」
彼は無表情に答える。
「だけど、アサッシンとネゴシエイターは……」
彼女の言葉を遮り、彼は冷たく笑った。
「お互いを思いすぎるが故に、潰れて行った者たちが後を絶たないと? それがなんだというのだ? 我々は不要なものは切り捨て、必要な駒のみを残し生き残っていく。それだけだ」
「はい」
彼女は、溜息をそっと吐いた。彼らは、切り捨てられるのだろうか、残るのだろうか。残るとすればそれはいつまで。自分はそれを見届けることができるのだろうか。
せめて今は祈ろう。二人がせめて、
「いっしょにいられますように」
fin.