nursing
 
  
    
 木実が珍しく熱を出して寝込んだ。特に風邪を引くような事もしていないのだが。  小雪は心配そうにベッドの傍に佇んでいる。手には固く絞ったタオル。そっと木実の額に載せると 「辛い?」  と尋ねた。  木実は頭を枕に乗せたまま首を力なく左右に振る。 熱は頭の働きを鈍くし、妙な事まで口走りそうで怖い。小雪が看病してくれるのは、嬉しいような、不安なような…。 「ゆきちゃん、伝染るといけないから…」 と言うのだが、小雪は 「平気」  と言ってその場を離れようとはしない。  小雪は熱を出しがちで、その度に木実に迷惑をかけて申し訳ないと思っていた。小雪にしてみれば、せめてもの恩返しの気持ちもあるのだろう。  木実は働かない頭で、どうして熱が出てしまったのだろうと思いを巡らした。  昨日は茉利衣に付いてΦに行ったら妙な小説を押し付けられた。純が書いた、木実と小雪を主人公にした小説だ。面白半分でそんな事をする純に腹が立った。もう少し良識人かと思っていたが、所詮は淳の友達なのだ。  小雪には読んで欲しくなかったがそうもいかず、目の前で読まれたのには困ってしまった。反応がとても気になった。  ため息をついた木実の脳裏に、小雪が呟いた言葉がいきなり鮮やかに蘇って来た。あれか…と思い当たる。あの一言できっと自分は熱が出たんだ。それしか考えられれない。たったあんな事で…。  自分のふがいなさを嘆きながらも、また熱が上がったような気がした。顔が赤らんだのを小雪の目から隠そうと、木実は布団を頭の上までひっぱり上げた。 「ナッツ?」  心配げな小雪の声が布団越しに聞こえてくる。 「息、苦しいよ」  そっと布団をめくろうとするのを 「大丈夫だから。今、顔見ないで」  と、ますます布団に潜り込もうとする。  小雪ははっとしたように手を引っ込めた。しばらくの沈黙のあと 「邪魔?」  とためらいがちな声がした。木実は返事ができず、布団の中でじっと身を縮めていた。  やがて小さなため息とともに 「ごめんね」  という声がした。音を立てずに、小雪がベッドを離れる気配がした。ドアが小さく軋む音。  小雪が行ってしまう。それも自分が迷惑をかけたと誤解したまま…。  ここで行かせたら小雪の事、このまま木実がすっかり治るまでこの部屋に近づかないだろう。陰でずっと心配し続けながら。いや、もしかしたら、治っても…? 「ゆきちゃん!」  木実は矢も盾もたまらず、布団を勢い良く払いのけて、上体を起こした。 「ゆきちゃんのせいじゃないんだ。ただ僕が、ちょっと…」  急に起き上がったので、眩暈を感じ、木実はそのまま突っ伏してしまった。  小雪が急いで走りよってくる。 「大丈夫?」  優しい手つきで、木実の上体を起こし、顔を覗きこむ。 「ゆきちゃん、怒った?ごめんね、ゆきちゃんがせっかく僕の事心配してくれているのに。」 「ううん。」  そのままそっと体を横たわらせ、きちんと布団をかけなおした。 「顔、隠す?」  少し戸惑ったような小雪の言葉に木実は微笑んだ。さっき、顔を見られたくないと言った事への、心遣いが嬉しい。 「いいよ。ゆきちゃんの顔、見えなくなっちゃうから」 「タオル、絞る?」  木実が動いたせいで落ちたタオルを小雪が拾い上げた。 「うん、お願い」  たまにはちょっと小雪に甘えてみようかな、と思った。その方が小雪も嬉しいかもしれない。  小雪はにっこりして、いそいそと洗面所に向かった。丁寧にタオルを水に浸し、きちんと畳んでぎゅっと絞り上げる。それを広げて正確な長方形に整えて、木実の額に乗せた。 「いい気持ち。ありがとう、ゆきちゃん」  そのまま目を閉じて、ゆっくりと息を継ぐ。不思議な気持ちだった。  昨日の事は昨日の事だ。小雪が自分の事を好きだと言ってくれた。それが自分は嬉しかったのだから、頬くらい赤くなったって、熱くらい出たって仕方がない。そう素直に思えた。それが恥ずかしいとはもう思わなかった。  驚くほど穏やかな気持ちになって、もう一度目を開けると、顔を覗きこんでいる小雪の目と合った。 「いっしょにいようね、ゆきちゃん」  昨日小雪が言ったことばを繰り返す。 「ずっと…ね」  小雪が頷くのを確認して目を閉じる。  小雪が手を握ってくれたのを感じながら、木実は眠りの中に入って行った。
 目が醒めると、小雪の姿が見えなかった。  不安になってまた体を起こしかけると、ドアが開き、小雪が戻って来た。手にはお盆を持っている。 「起きちゃった?」 「どこ、行ってたの?」 「食事」  自分のという意味ではなく、木実の食事という意味らしい。お盆にはおかゆと、冷たく冷えたほうじ茶が載っていた。 「食べられる?」  食欲なんてさっきまで全然なかったけれど。 「うん。ゆきちゃんがわざわざ持ってきてくれたと思うと、お腹が空いてきた。」 「よかった。」 「ゆきちゃんは、食べたの?」 「あとで」  小雪はベッドの傍にイスを置き、その上にお盆を乗せた。  木実の上体を起こしてベッドヘッドにもたれさせかけ、自分はイスに腰掛けて膝にお盆を乗せる。ちりレンゲを持って、少しおかゆを掬い上げ、木実の口元に運ぶ。 「はい」 「ゆ…ゆきちゃん、いいよ、自分で食べられるから」  あわててレンゲを自分で持とうとする木実の手をすっと避けて、 「熱い?」 と自分で息を吹きかけて少し冷まし、もう一度口元に運ぶ。 「ゆきちゃん…、だから、そんなに重病じゃないから自分で…」 「嫌?」  木実にレンゲを差し出したまま、悲しげな顔になる。 「あ、いや、嫌じゃないけど。その…なんていうか、恥ずかしいよ、こんなの」 「なぜ?」 「だって、なんか…。」 「見てないよ、誰も」 「そりゃそうだけど」  誰かに見られるという事ではなく、小雪に食べさせてもらう事自体が恥ずかしいのだが。  でも、せっかくの小雪の好意を無駄にしてがっかりさせたくもない。  意を決して、小雪の差し出すレンゲを口にした。小雪はほっとしたように微笑んだ。  もう一度レンゲにおかゆをすくい、またふうふうと吹いて冷ます。 「美味しい?」 「うん」  一度食べてしまうと、後はすんなりと受け入れられた。結局全部食べさせてもらい、麦茶も飲ませてもらった。 「汗、かいたら言って」  空になった容器を片付けて、木実が横になるのを手伝いながら小雪は言う。 「着替え、手伝う」 「いいよ、ゆきちゃん。それはやりすぎだって」 「どうして?」 「どうしてって…困っちゃうなあ。」  そんな事されたら、また熱が上がってしまう。それをどう説明しようかと悩んでいると、小雪がクスッと笑った。 「恥ずかしい?」 「うん、それ。汗かいたって事は熱が下がったって事だから、その時は1人で大丈夫だから、ね?」 「わかったよ」  小雪はまた笑って、食器を片付けに部屋を出て行った。 〈br〉  小雪が部屋に戻って来ると、木実はぐっすりと眠っていた。いつ木実の喉が渇いても大丈夫なように、冷ましたほうじ茶を入れ替えてお盆に載せてきた。あとは自分用の小さなおにぎりが2つ。何も食べないと、木実が心配する。  音を立てないようにベッドのわきのイスに腰掛け、小雪は木実の顔を覗きこんだ。うっすらと額に汗をかいている。そっとタオルで額を拭い、もう一度タオルを洗うために立ち上がった。  さっきと同じようにタオルを絞り、静かに木実の額に載せて、木実の様子を伺う。さっきよりずっと呼吸も楽になったようだ。 「よかった」  小さく呟いて安堵のため息を漏らす。   ベッドの傍に跪いて木実の顔をじっと見つめる。 いつも自分に優しい木実。いつも自分の事を気にかけ、あれこれ手助けしてくれる。今、その木実が自分に頼ってくれている。それがたまらなく嬉しい。木実の病気は心配だったけど、恩返しができて良かったと思う。 「早く、治って」  そっと話しかけて微笑んだ。時計の音だけが部屋に響き、静かな時が流れて行った。
 夜半過ぎ、木実は目を覚ました。部屋の中は薄暗いままだったが、頭は昼間よりずっとスッキリしている。 「ゆきちゃんのおかげだな…」  そう呟いて、間近に寝息が聞こえるのに気が付いた。  小雪が、すぐ傍らで床にぺたんと座ったまま、ベッドの縁にうつ伏せて眠っていた。 「ゆきちゃん」  声をかけると、小さく身じろぎして、はっとしたように体を起こした。 「寝ちゃった」  照れくさそうに言って、にこりとした。 「疲れたんだね。ごめんね、僕の看病したから」  木実の心は、すまないといった気持ちで一杯になる。熱が出たのも全部自分が悪いのに。 「おかげでもうすっかり元気だよ。ゆきちゃんも、自分の部屋で休んだら?そんな格好で寝たら体、痛くなるよ」 「ここに、いさせて」  小雪は体勢を立て直し、木実の片手を両手で包み込むようにした。  手の平から、小雪の温かい思いやりが伝わってくるような気がした。ここはせっかくの好意に甘えてしまおうか。 「わかった。じゃ、朝までずっと傍にいてね」  小雪が頷くのを確認して、もう一度目を閉じた。 「ありがとう」  そう告げて、木実はこの上なく幸せな気持ちで、また眠りに入って行った。 
  



fin.