やっべえ、遅くなった。  オレは夜空を見上げながら、地元の駅からとぼとぼ歩いていた。  日はとっぷり暮れていた。あたりは闇夜に閉ざされ全く見えない。時計を見たら、今の時刻は9時半だった。かなり遅い。  部活をこんな遅くまでやってるなんて、と思うかも知れないけれども、仕方がない。なんせ、オレは俗にいうみなしごというヤツだから、普通だったら高校に行かず働いたりすることになっても不可抗力であるところを、今の部活の先生に『類稀なるバランス感覚』を見込まれて特別補助を出されたことにより、どうにか通学しているような状態だ。食糧はけっこう、オレの経済状況を知っているのか、黄色い声を上げながら、女子がくれたりすることが多い。コンビニのねーちゃんとかも、よくくれるかも知れない。下心があるにせよ、大助かりだからそれは気にしないことにしよう。家賃はまあ、親が遺していった少ないものを、なんとか払っているけれど、これが底をついたらどうするのかは、なんだか全く浮かばなかった。尽きたらそれまでか、という感じもして、自分が稼がなければという焦燥感に駆られるようなことはなかった。  そんなありさまだというのに、貧乏人にあるまじき空虚間などを抱いて鬱になることが多いオレは、よく意味もなく不登校になりかけた。なんだか分からないけれど何か大きなものに押しつぶされそうになる気持ちがして、足がすくむのだ。  けど、そんなときでもまあ、部活だけは一応出るような状況だったのだから、いまさら辰砂が来たからって変わりようもない。 辰砂は起きているのだろうか、という考えが頭をもたげる。弁当が美味かった、と一応礼を言わなければならないと思うけど、多分帰ったら辰砂は、開口一番にオレの帰りの遅いことを怒るだろう。それを上手く諌めながらきちんと礼をいう術など知る由もないのだから、口論になってしまうに違いない。  憂鬱に思いながらもオレは、自宅のドアを開けた。 ああ、やっぱり辰砂起きてるよ。さて、どうやって説明をつけようか。別に普通に『部活で遅くなった』と真実を言えばいいけど、それなら連絡よこせだの難癖をつけかねられないし。  いつものように辰砂は窓際で、街を見下ろしていた。ここは4階、高さだけは随分あるマンションだから、まあ見慣れないヤツには楽しいかも知れない。もう16年は暮らしているオレなんかだと単調なつまらない景色だけど。  その日は十六夜だった。  端のほうが少しだけ欠けた月が、辰砂を照らし出していた。 「辰―…」  声をかけようとして、はたと止める。  なんだかこの空間を壊してはいけない気がしたからだ。オレの家なのになんで気遣う必要がある、とは思うのだけど、それとは別のところに何かが引っかかった。  辰砂の色白の肌は、それを通り越して青白く見えて、思わずもう少しで手を伸ばしかけてしまう。別にこいつが消えたって、オレにはなんの関係もないはずなのに。  だけどその横顔があまりに普段の幼さをかき消していて、少し恐怖さえ感じさせたので、ここから飛び降りやしないかなどと、考えてしまうのだ。 「辰砂」  思わず声が出る。辰砂はハッとしてこっちを向くと 「あ、昏空さん。帰って来たならそう言えばいいのに…」 「そっちが思いつめたような顔してるから、話しかけづらかったんだろーがよ」 「考えごとですよー、ちょっと」  一体何を?  けど、その疑問はなんだか口に出してはいけないような気さえした。踏み込んではならないと、体の奥底から誰かが叫んでいる。何故かは知らないけれど。 「それより昏空さん。私、行きたいところがあるんです」 「…何処だよ?」  明日は、辰砂を拾って初めての休日だ。  『地獄までさーっ!』なんて言って大鎌を振り回されては敵わないから、一応念のため聞いておく。 「『ブランチカタウン』って知ってますよね」  知ってるも何も、まずこの国で知らないヤツを見つけるほうが難しい。『ブランチカタウン』は近所にある大型アミューズメントパークで、東京や大阪の某遊園地と並ぶほどの超有名な場所だ。 「なんだよ遊園地か。やっぱガキだな」  オレはちょっと安心した。  なんでオレがこいつを養った上、連れまわさなくちゃならないんだ。  いつもだったらそう思って、ほったらかしにしただろう。だけど、あの妙な顔つきを見たあとだったからなのか、ついその願いに応じてしまった。とにかく、こいつはちょっとおかしな普通の子供なんだって言いきかせたかっただけかも知れない。  ただその時のオレの行動は、裏目に出てしまったのだけど。
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 太陽が東に輝き、雲ひとつない澄み切った空は、むしろ鬱陶しいくらいだった。朝露を持した緑葉が日の光をあびてきらきらと光っている。まさに絶好の行楽日和だ。  朝もはよからこんなトコで、子供じゃあるまいし何をしているのだろう、と並ばされている時間中ずっと思っていた。それでも30分ほど待つと、やっと園内に入ることができた。 「で、どこ行くんだよ」 「えーと」  辰砂は、公園の噴水の傍に寄って行く。地図でも見るのかと思ったけれども、そんな気配は一向になく、ただ周りをきょときょとと見回した。 そして 「多分こっちのほう」 と一点を指差す。  こっちのほう?  まるで、何度も来たひとのような事を言うので、オレは少々訝しげに思った。まさかオレの家に来る前は、ここに住んでたなんていうんじゃないだろうな。  そんな困惑に駆られている間に、辰砂はオレを置いてさっさとそっちの方向に走り出していた。 「おい辰砂ー!迷うぞ、ここ結構広いんだからなっ」  あわててその後を追うオレ。周囲の人々が奇異なものを見るような目でオレたちを見つめているのがわかった。面倒見のいい兄とするには、オレの外見上ムリなところがあったのだろう。じゃあなんだよ、ロリコンストーカーのが似合いだっていうのかよ。  やや卑屈に思いつつそれでも追って行くと、やがて辰砂は外れのほうでぴたりと止まった。  ここには施設がまったくない。何もないがらんとしたところ、というわけではなく、簡素な建物が一件ぽつんと置かれてはいるのだが、つまり普通の遊園地に期待するような『施設』がないということだ。おそらく役員専用の部屋とかがあるんだろう、と思って 「おい辰砂、こっちは何にもないぞ」 と教える。  しかし辰砂は静かにかぶりを振った。 「ここですよ」  と言ってドアノブに手をかける。 けど、ふと見れば、『staff only』の札が堂々と出ているじゃないか。 「おい。そこ、立ち入り禁止…」  オレが止める間もなく、辰砂はそのドアを潜って行った。オレも仕方なく、後に続く。
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「レンズさま、連れて来ました」  辰砂が『レンズ』と呼んだ人物は、とりあえず美しげなヒトだった。もともとの顔立ち自体はおそらく、辰砂同様に中性的なイメージのものなのだろうけれど、びらびらとレースだのフリルだのがつきまくった、ものすごい服を着ていて、さらに化粧を分厚くぬりたくっていることから、なんだかそうは見えない。  そして辰砂を見ると嬉しそうに 「シンシアちゃあん。久しぶりね、元気してたァ?」  …おかまことばは、ハマリすぎている。 「おかげさまで元気です」 「良かったわねェ。あら…」  すると今度は、オレに目をつける。 「その子は?」 「城 昏空さん。いまお世話になっている家の主なんです」  端的に要旨だけ述べてから、何故か戸惑ったように言葉をくぎり、一言添えた。 「…『しろ様』ですよ」 「え?」  なんだその、雑種の犬みたいな名前。  オレが抗議しようとする前に、しかし、レンズのほうが余程驚愕の表情を浮かべていることに気づく。レンズはオレをじっと見つめると 「君が…しろ様なの?」  不思議だ。どうして初対面の相手に、『サマ』付けされるのか。  それもなんだけど、『サマ』が付いているわりには何だか、そんなに尊重されてない気がするのが分からない。 「間違いありませんよ。あんまりない類の顔ですし」 「まあ…そうね」  レンズはオレの顔をじろじろと眺める。あんまりいい気分じゃない、というかハッキリ言って嫌だ。 「それに写真で見たでしょう、レンズさんも」 「ええまあ、それはいいのだけど。でもこの人から、そんなものすごいオーラを感じないというか…」 「おい、辰砂!それからええと、レンズ!」  いい加減に堪忍袋の緒が切れて、オレは声を上げた。 「年上のヒトに向かって、呼び捨てはないんじゃなあい?」  レンズはむっとしたように反論する。 「そうですよー、昏空さん。レンズさんはすごい方なんですよ、なんといっても、支部局長ですから」  支部局長。  そういえばそんなことを前にも言っていたような気がする。セーラー服趣味のロリ局長。こいつのことかよ、と舌打ちした。 「アタシに逆らったらどうなるか分からないってコト、覚えときなさいよね、昏空クンだっけ」  やたら馴れ馴れしいこの口調は何だか腹がたつ。  だけど怒ってばかりいても仕方ないし、生きてきた16年という短い半生の中でも、こういう人間はまずヒトの話を絶対聞かないだろう、ということはすっかり了承していたので、何も言わないことにした。 「で、シロサマって何者だよ」 「聞いていいんですか?」  辰砂はどこか迷うような声音で聞き返す。 「聞くに決まってんだろ。この状況でオレだけ何だかワケ分かんねーのって、すっげえ癪に障る」  それでも辰砂はうーん、と唸る。 「知ってしまったら、二度と普通の生活に戻れないとしても、ですか」  辰砂の碧眼がじっとオレを見つめる。不覚にも一瞬だけ、ドキッとしてしまった。  どうせ、オレの日常生活なんてあってないようなものだ。オレが学校に行かなくなったとしたって、別に誰も困らないだろう。オレを取り囲んできゃあきゃあ騒いでたオンナどもは他のちょっと顔のいいヤツを見つけて、それでまた騒ぎ出す。牧衛にはちょっと悪いかも知れないけど、あいつは結構いい奴だから、すぐに他に親しいのもできるだろう。  刺激が欲しいわけじゃない。辰砂とこの怪しいオッサンがどんなことに巻き込まれていようとも、関係ねえ。だけど、オレだけここで何も分からず、知らない内に巻き込まれていたなんてのはイヤだ。 「聞く」  辰砂は、何故か大きなため息をついた。  オレをここに連れて来たくせに何かを躊躇うような顔。なんだそれ、勝手な。 「『luluby』というのは何のことか知ってますか」  子守唄。  偶然にも、こないだ授業で習ったばかりの単語だった。じゃあ、つまりこいつらの言ってるのは、ベビーシッターとかそういう仕事か?  そうか。そうだよな。  オレは安堵して頷いた。そういえば、ここは遊園地の敷地内にある建物だ。おそらく迷子預かりとかをしながらの仕事で、すっごくキツイから本人の意思を確認してから雇うとか、そういうことだったんだな。  しかしオレのその淡い期待は、レンズによって打ち砕かれた。 「でもさ、実質上は『Requiem』のが合ってるんじゃない?」  レクイエムというと鎮魂歌としてあまりに有名だ。それがぴたりと当てはまるということは… 「…なんかそっちの、ヤバイ系かよ」 「察しの通りよ。意外と回転鋭いのね」  なんだかバカにされたような気分を覚えてしまうのは単なる僻みだろうか? 「このところヒトの流派が2つに分かれている、ということに昏空さん、気づいてましたか」 「流派?」  そんなの2つどころか、あげつらえば数え切れないほどにあるだろう。貧困と富貴、天才と凡才。この世界は全て不平等で、一見平等そうにうわべを繕われている中でも、半数がこれにあたると踏んでいる。だから今更『流派』と言われても、どのことなのか見当がつかなかった。 「自然を制するものと、それを守るものです」  ああ。そういう分け方か。  人間のほとんどは、食物連鎖から外れてただ摂食するのみ、という立場を取りたがっている。それは理に背くことだなどと考え、叫ぶのは少数派であって、多くの人間はそんな言葉に心打たれることが一時あったとしても、すぐに忘れてまた強欲に貪り尽くしていく。そんなこんなで政党分離だのいろいろしているのは知っているけど。 「それがオレと何の関係があるんだよ」 「昏空さんは、何十億と言われる人間の中から、『しろ様』の該当人物として挙げられたのです」  人間の代表?  しろ様がどんなものなのかは分からないにせよ、悪い気はしなかった。悪い気はしないけど、不運なことには、それでああわかった、と全て了解できるほど賢い頭を持ってはいなかったのだ。 「だからそのシロサマが何だ、って聞いてるんだろ」 「しろ様っていうのは、我が『守護派』の主みたいなモノよ」  レンズが横合いから解説を入れてくる。 「つまりそれは、一番偉いやつってことか?」 「まあ、そうね」  答えたレンズは何となく、奥歯にものが挟まったような物言いだった。 「で、具体的にナニするんだ」 「人間を殲滅させる、っていうのが最終目標なのかなあ」  ああ、なるほどね。ハイハイ。  …って。  殲滅?  それは、つまり、根絶やしにするということだろうか。 「ちょ…っと待てよっ」 「ナニ?」  レンズはきょとんとしてオレを見た。その様子をじーっと見つめて、さらに辰砂も見てから 「おまえらフツーに人間だよな?」 と聞く。 「どっからどう見てもそうでしょ?ナニ言ってんの」 「じゃあ、そんな事したら自分らも死ぬんだろ?そこまでして自然守って、何が嬉しいんだよっ」 「これ以上の被害を出さないようにするためにはこれしかないのよ?どんなにヒトが汗水垂らしていろいろ開発して、どうにかこうにか、自然を保とうとしたって、結局それは偽りでしょう。これ以上罪を重ねないうちに、さっさと地上から消えたほうがいいのよ」  堂々と答えたレンズの言葉があまりにあんまりで、オレは思わず反論する術を失う。 「だいたい、オレはシロサマなんてのになる謂れなんてねーんだからな」 と言い方を変えてみても 「運命からは逃れられないのよ、分かってないわね。」 「それに、人を全員滅ぼすってことになったら、オレも死ぬじゃねーか」 「死にませんよ、昏空さんは」  辰砂がオレの目を見つめていった。何故だか鬼気迫るようなその口調に、一瞬たじろぐ。 「…なんで?」 「別格なんです。昏空さんの体のつくりは」 「ヒトじゃないって意味か?」 「カタチはヒトですよ。多分、血液1つ細胞1つ取ってみても、人間と判断されるでしょうね」 「じゃあ、何で」 「『しろさま』ですから」  辰砂の答えは相変わらず、よく分からない。  けど、とりあえず、つまりオレは例え人間を滅ぼしても死なない、と。じゃあオレ自体に損は出ないんだな。直接的には。 どうせ元からそんなに周囲を気にする性質じゃないから、オレはきっと周りが全部なくなったとしても、ああ静かだな、くらいにしか思わないに違いない。 それは分かったけど、でも。 「オレに得はあるのかよ」  辰砂は、うーんと唸った。 「…得もないですけど、それをしないと確実に損になりますよ?」 「何でだ?」 「もう話を聴いてしまったから」 「聴いただけだろ」 「じゃあ、何も知らなかったときと同じ目で、みんなのことを見る事が出来るのですか。」  ああ、そういう事か。  確かにそれは無理かも知れない。いつこの世界は滅びるのだろうという危機感と焦燥感に捕らわれたまま、安穏とした日々を過ごすことは出来なくなる。その想いを他に伝えることもできないだろう。そんなことをしたら、確実に精神科送りだ。オレは『疲れた現代社会の産物』などという見出しの小さな記事になって、16才の少年と名を伏せられながら、新聞に載ることだろう。何も知らない大人が、勝手につけた見解などと一緒に。 「それに昏空さん。もしあなたが拒否するのなら、自動的にあなたはただの人になりますけど」  人になる。 すなわちそれは、滅びを意味するのだ。 もちろん命があるからには死滅も確実に予期されたものだけど、今回の場合はそういう話じゃねえ。寿命じゃなく、第三者から計画された死なのだから。 「じゃあ、オレに選択肢なんてないじゃねーか」 「そうですね」  辰砂は素直に頷いた。こんなときだけ正直にされても、少しも嬉しくない。 「それに多分、あなたがこっちに来ないとしたら、明日あたりにはもう死んでいるかもしれません」 「…どういうことだよ、それ」 「あなたの事を知っている人というのは、あなたが思っている以上に居るんですよ、昏空さん」  しかしそんなことを言われても、どういう意味なのか分からない。 「たとえば、その力を狙って来る人。私たちの計画をどういう伝からか知り、阻止しようとする人などは、おそらくあなたの命を狙ってくるでしょうね」  優しい優しい辰砂はご丁寧にも、その後延々と 「内臓引きずり出されたり」 とか 「ああ、生きたまま皮を剥がれるって痛そうですね」 とか 「そういえば、鼻を削がれたりする拷問ってあったみたいですよね」 などと惨たらしい描写を続けてくれた。  それから最後に憐憫を含んだ口調で 「こうなる事は運命で、どうしようもないんです」 と決定打を出す。  オレの選択の権利はこれで、ゼロになった。 「ご決断を、昏空さん」  決断?  おまえらの言いたいことをただ単に、言わされるだけなのに、これが?  でも、引き返せない最後のラインはここで、強く望めばもしかしたらまだ、引き下がれるかもしれない、という想いが起こってくる。しかしそれはたった一瞬で、レンズの目をちらと見た瞬間にそれはあえなく打ち砕かれた。  僅かだけど殺気。ああ多分、断ったらこの場でオレの短き命は終わるな、となんとなく感じ取った。第六感が鋭いのは、果たしてオレにとって吉と出るのか凶と出るのか。つまりこの場で大人しく殺られたほうが良かったのか、しぶとく生き続けたほうが良いのかの判断なんて、オレには出来ず。 「わかった」  たった一言で様変わりしてしまうというのだから、所詮ひと1人の人生なんて軽いものだ。