校舎の中は、すでに他の生徒たちでいっぱいだった。  オレの登校時間は決して早いほうじゃないから、別に驚くことでもない。でもまあ、これでも確かに前よりは早くなってるんだよな。  ―辰砂のヤツが来る前までは、確か2限が始まってからガッコに来るようなことだって、少なくなかったんだし。  別にあいつが来てから健康的になったから、とか、そういう訳じゃない。ただ単にあいつがオレを朝っぱらから叩き起こすわ、ヒマさえあれば先ほどのように訳のわからないことをぐちぐち言われるわで、鬱陶しいからさっさと出てくるだけだ。  オレが下駄箱で靴を上履きに替えていると 「昏空さまーっ!」 と、けたたましい声と共に、安心院 祝(あじみ のりと)がこっちに向かって来た。  …またかよ。 「おはようございます、昏空さまっ」 「あー、安心院。おはよ」 「やだわー昏空さまったら。『のりと』でいいんですのよー。きゃっ」  いやそんなことどうでもいいよ、別に。  そう思ったけどまあ無駄に傷つけるっていうのも意味がないような気がしたから、言わないでおいた。 「…じゃ、のりと」 「きゃああああっ。昏空さまが、『のりと』って呼んで下さったわああ」  おまえが呼べって言ったんだろうが。  そう思いもしたけれど、わざわざ抗議するのも面倒だ。こういう輩は放っておくに限るよな。  安心院の家は金持ちだ。しかも、ただ単なる金持ちってわけじゃなくて、会社を何個も下に持っているようなすごいところだ。日本有数の、と言っても差し支えないだろう。いや、そう言わないと逆に差し支えるようなところだ。  そんなミラクル級のお嬢様がなんでこんなところに居るのかというと、どうやらそれは、別に何か特殊な陰謀が渦巻いてたりするわけじゃなくて、ただ単に安心院のじーさんがここの校長をしているから、という単純な理由らしい。安心院のじーさんと言えば、商才がなく手を出した商売かたっぱしから失敗することで有名だ。別にだからこの学校がどうだとか、批判したいわけでもねえけど。  その安心院がなぜ、オレのような超・下流家庭の庶民などに干渉してくるのかは不明だけど。とにかく彼女はオレに対して好意を抱いているらしくって、顔を合わせれば今のようなハイテンションっぷりで対応してくる。ちょっと、いや、かなりの度合いで迷惑だ。 「でね、昏空さまっ」 「ん?ああ…」  ほとんど聞いてなかったオレの耳の中に、安心院の声が飛び込んで来た。 「のりと、今日は昏空さまのために、お弁当作って参りましたのよっ」 「弁当?」  いらねー。  言いかけて、そうだ金持ちの弁当なんだから、きっと下流庶民のオレには口に出来ないような食べ物でも入ってるんじゃないか、と思い当たる。貰っといて損はないだろう。 「どこにあるんだそれ」 「待ってくださいまし。今、車のほうから出だして来ますので」  車?  どれだけデカイんだよ、それ。 「田仲!佐東!お持ちなさい!」  ぱんぱん、と両手を叩くと、何処からともなく現れた、がっちりしたガタイを全身黒いスーツで被いサングラスをかけている、やくざ的ファッションの男が2名がかりで、何か箱を担いでくる。 「…えーっと。コレは?」 「お弁当でございますわ」 「べ…弁当だあっ!?」  十数人で食いきるかどうかさえ知れないそれは、中身までビッグサイズだった。  玉子焼きは枕大。ウィンナーは抱き枕。ごはんに覆いかぶさった海苔まで布団なみの大きさだったけど、ごはんはさすがに、バイオテクノロジーの限界があったと見られて、普通の大きさの4倍くらいのものがびっしり詰まっていた。海苔とごはんの間に挟まっている醤油まで実は、巨大な大豆で作られていたりするかも知れない。 …はっきり言おう。なんだか気持ち悪い。  オレがあまりのことに絶句していると、安心院は自慢げな顔をして 「昏空さまって、運動系の部活やってらっしゃるでしょう?体力をつけないと、大変だと思って…」 などと言った。  オレの所属する部活は、綱渡り同好会というマニアックなものだ。披露するという目的からはどちらかというと文化部に近いと見られがちだけど、実際はとても気力を使うため、運動部寄りだ。体操部とかと同列のもの、と考えるとさらに分かりやすい。だけどいくらなんだって、この弁当はやりすぎだ。 「貰っていただけます?」  ゴメン要らない。  喉元まで出かかった言葉を、何とか嚥下しなおす。ここでそんなことを言おうものならば、9割9分の確率でその後SPに殺される。 「…ああ」  安心院はほっとしたような顔をした。  なんだか不服に思いつつも、オレはそれを抱えあげようと―したのだが、やはり持ち上がり切らない。 「それじゃのりと、お授業が始まってしまいますと困るので、もうお教室に戻っていますわっ。失礼します、昏空さまっ」  満足げな安心院はそんなことにも気が付かない。 「おー城、すごいじゃん」 「モテるオトコは辛いねー」  みんな他人事のように、いや他人事だから仕方ないことなんだけど、口笛さえ吹きながらオレの脇を通って教室に入っていく。ああ、恨めしきは友の少なきことかな。  唯一オレが信頼して友と呼べるような人物は、まだ登校してないみたいだし。だけど、ここにコレを放置しておくわけにもいかない。安心院は気づいているのだろうか、屈強なSPを以って2人がかりで寄こしたものを、オレがひょいと担ぎ上げることなどできるわけのない事に。それとも、これもトレーニングの一環か?だとしたら有難迷惑も甚だしいことを、きっちり教えてやったほうがアイツのためかも知れない。  試行錯誤を繰り返し、それでもやっぱり巨大弁当は持ち上がらない。こんなのどうやって作ったんだ、絶対1人じゃやってないだろ、と心でぶつぶつ呟きながら、この場に捨て置きたいような衝動に幾度となく駆られ、いやそれはあんまりだと踏みとどまること数回。  そんなこんなでかれこれ数分がたった頃、誰かが早足で廊下を駆けてくるのが聞こえた。遅刻まぎわ組だろうか、と思うが、なんだかやたら足音が小さい気が…。  オレは音のほうを見遣った。人影が近づいてくるにつれて、その姿がはっきり見えるようになって来る。巻き毛を自身が起こす風に揺られながら、走って来るその人物は、辰砂以外のなにものでもない。 「くらたかさーん」  満面の笑みなど浮かべつつ、辰砂は大手を振りながらオレの名を呼ぶ。生徒たちは何事か、と辰砂の方を見て、その容貌に見蕩れたようになる人も多かった。 「忘れ物ですよー、昏空さーん」  見ると確かに辰砂の腕には、小さな包みがしっかりと抱えられている。  やめろよ、新婚家庭じゃあるまいし。 「おい辰砂。ちょっと静かにしろ」 「酷いー。せっかく届け物を持ってきたのに」 「届け物?」  何か必要不可欠なものでも忘れただろうか。学園生活には極端な話、シャーペンと消しゴムとノートの切れ端でもあればそれだけで取りあえず事足りる。定期は学校に来られたのだから、忘れているわけないし、財布は確かさっき飲み物を買ったから、あるはずだ。  片道2時間もかけてここまで来るという、その価値を見出すことのできる品とは一体なんだ。 「何か忘れたっけ」 「お弁当。」  言いながら辰砂は、ウサギの包みを手渡した。反射的に受け取るオレ。 「…なんだこれ」 「昏空さん、いっつも購買で何か買ってらっしゃるんでしょ。不経済ですよ。今日から作ろうと思ったのに、うっかり渡しそびれちゃって」  弁当?  いい加減にしてくれよ、と胸中で思う。なんで今日はこんなに弁当が多いんだ。しかも、この学校までの電車賃を考えたらば、そっちのが余程不経済な気がしてならない。  それにわざわざ、こんな可愛らしいもので包まなくてもいいじゃないか。どうしても包みたいならば、八十八円均一の店とかもあるんだし、なにもこんなトコに金を使わなくても…。  そんなオレの心理を文字通り『読み取った』辰砂が 「ああ。それは店のおじさんたちがくれたんですよ。おじょーちゃんお買い物?偉いねえ、って。だいたい私、飛んできたからお金使ってませんよー」  しかもオレはおまえに家にいろって言っただろ。 「夫婦円満の秘訣は、夫が妻を拘束しないことが第一の基本なんですよ?」  いつおまえと夫婦になったよ。  しかし、聞こえているはずの最後のその疑問は回答を拒否するように、にっこり笑顔で受け流された。開けろ、と目が言っている気がする。  フタを開けてみると、白米、だしまき玉子、タコさんウィンナー、野菜炒めなど、ありとあらゆる『お弁当の基礎』的なものがぎっしり詰まっていた。ほとんど安心院の弁当と内容は変わらないのだけど、衝撃的な大きさのアレを見た後なだけに、何でも美味しそうに見えるから不思議だ。 「貰っとく」 「人に物を貰うときは、『ありがとう』が鉄則ですよ?」  辰砂は、にっこり微笑んだ。 「…どーせそれ、オレんとこの食材で作ったくせに」 「お礼は?」  辰砂の目に、一縷の冷たさが浮かんだ。何だかこれに応えないと何をするか分からない、といった類の恐怖を感じたオレは 「…ありがとう」 とぼそりと返す。  一言だけでも言うと、辰砂は満足そうに頬を緩ませた。するとそこで、気持ちに一区切りついたせいなのか、オレの持ち上げようとしていた安心院特製巨大弁当に目が付いた。 「あれ、昏空さんコレは?」 「ああ…。隣のクラスのやつに貰った」  簡潔にまとめたつもりだったが、どうやらそれでも大いに興味を引いたらしい。まあ、そりゃそうだけど。 「貸してください。…うっわあ何コレ、大きすぎ」  無作法にも勝手にフタを取り、なんやかんやと癖をつけた。だけど、どれもごもっともとしか思えないものだ。例えば 「量がありゃいいってもんじゃないですよね」 とか 「なんか、逆に質が悪そう」 とか。  しかしその最後に、オレの方をやおら向いたかと思うと、辰砂の口から発せられたのは意外な言葉だった。 「これ、貰ってもいいですか?」 「へ?」  オレとしては、始末に困っていたコレを処分してくれるというのだから、いい話だ。味などきっと普通のものと変わらないだろうから、安心院に感想を求められたところで、何ら困るところはない。捨てるわけじゃなし。  だけど一体、何に使うというのだろう。  まさか辰砂1人で食べようというのだろうか。野良猫の餌付けなど下手にされて、住み着かれては困るけど、と色々なパターンを考えてみるが、今まで見てきた中だと辰砂はあまり大食漢のほうではないらしいし、居候の身分で他を養うような余裕も、まさかあるまい。  その心中をまたもや見透かされたオレは 「ちょっと、思うところがあるので」 という辰砂の言葉に、釈然としないものがありつつも、まあいいか、という気になる。 「それじゃ、私は帰りますから。しっかり勉強しててくださいね」 「おまえに言われる筋合いはねーよ」  あはははは、と笑う辰砂に背を向けて、オレは教室の中に入って行った。  …と、気がつく。  そうだよ。オレでも屈強なオトコ1人でも運べないアレを、辰砂の細腕が持ち上げられるわけないじゃん。どうするつもりだ、アレ。 「おい辰砂…」  オレが出口へ向かうと、しかし辰砂の姿はもうそこにはなかった。巨大弁当も一緒に姿を消している。 まさか、運んだ?けどどうやって。  呆然として昇降口へと続く廊下を見ていると、後ろからぽん、と肩を叩かれ思わず跳ね上がる。 「なんだよ昏空、驚きすぎだろ」  振り向くまでもない、その声はよく見知った人物のものだった。 「…牧衛かよ」  人の良さそうな丸めの顔が、にっと笑う。  日馬 牧衛(くさま まきえ)は、オレが中学のときからの友達だ。  進学校で少し浮き気味というのはよくあることだけど、オレもその典型のパターンで、苛められこそしなかったものの、そんなに友好関係が広いとは言えなかった。なのに、どうして出会ったかは忘れたけど、牧衛とだけは何故か息が合ったのだ。同じ高校を志望していたことも共感を得るところがあって、良かったのかも知れない。とにかくそういうわけで、今更その存在自体に驚くようなこともない。 「で、さ。さっきのカワイイ子誰だよ」 「辰砂。」 「名前じゃなくてさ。具体的にどーゆー関係か、ってこと」  確かにそうか。  辰砂とオレの関係…というとやっぱり、落ちてたのを拾ったんだから、ペット?いや、それはニュアンスが大いに違う気がする。 「姪だよ。あいつの母さんがオレの母親と姉妹だったんだけど、交通事故に遭ったとかいうことで天涯孤独だそうだから。ほかはもう、血縁関係がないに等しいようなトコばっかで」 「昏空の親って、両方一人っ子じゃなかったっけ」  コイツはときどき、ヘンなところで鋭い。 「…そーだよ」 「やっぱりねー」  牧衛は思案顔で頷いた。…なんか嫌な予感。 「あ、もうすぐ授業始まる」  オレが席に着こうとすると恰幅のいい牧衛の腕が、オレのやわ腕(というほどでもないが)をがしっと掴んだ。このまま折られるんじゃあないか、という光景にさも見えることだろうけど、こいつの力は見かけほど強くないため、そんな虞は実のところ全くなかったりする。 「なんだよ。まだ5分前だぞ、律儀すぎて昏空らしくもない」  それは三言もよけいだ。 「席着いてからでいーじゃねーか、出入り口で話し込むと迷惑だし」 「迷惑ぅ〜?」 そんなの気にするなんておまえ、熱あるんじゃないか?という顔でオレを見ている。大きなお世話だ。 しかも、オレのあまりに不自然な言い逃れのせいで、余計に牧衛の中の一種の確信は育ってしまったらしい。にやにやと笑いながら 「にしてもさ。いやあ昏空、お前に春が来るとは思わなかったよ。しかも、おれより前に」  ああやっぱり、勘違いしてるよ。 「あのな。あいつはそんなんじゃねーよ。」 「そんなんじゃなきゃ何だよ。肉親でもないのに同居してるっつったら、もうそれしかないだろ。じゃなきゃ何か?かどかわして無理に置いてるっていうのかよ。ヤバいぞ昏空、それはマズイ。早まるな、今すぐ自首すればひょっとしたら罪に問われないかも知れない」 「…ホンキじゃねーよな」  牧衛はぺろりと舌を出す。 「冗談に決まってんじゃん。だいたい昏空、選び放題だしなあ。ちょっとモーションかければ、うら若き少年期の子を5,6人はカルイだろ」  …こいつは一体、オレをなんだと思っているんだ。  バカバカしくなってきたオレは、牧衛を無視することに決め込んで、自分の席にどかっと座った。それでも牧衛は後からついてきて、まだ何事かいっている。 「そっれにしてもさー、キレイだったよな、あの子。シンシャちゃんっていうの?」  オレは無言。 「あんくらいになるとやっぱり、落とそうとしてもなかなか落ちないんだろうなあ。あ、でも10才くらいだとひょっとして、自分の美しさに気づかないかもなー。そっか、そこが狙い目なんだな?今のうちから好みのタイプに育て上げる、みたいな?うっわあ、光源氏的ー」  オレはひたすら無言。 「さしずめあの子は紫の上かー。でも紫とかってあんま似合わなさそ。瞳と合わせて蒼とか?」  無言の極地をきわめろ、オレ。こいつの戯言にいつまでも付き合っているヒマなんてないんだ。別に格別、忙しいわけでもないけど。 「で、あの子って男の子?」  オレは思わず、ぶっと噴出した。お茶でも飲んでたらヤバイことになったに違いない。 「どうしてそっちから聞くっ!?」  思わずオレは、自分に課した金科玉条を破ってしまう。 「いやだって…。昏空って、あんま女の子に興味がないのかなーって見えるし。あんだけたくさんの娘が群がってるのに、一つも手出ししてないんでしょ。ていうかそうじゃないと困るよな。みーんな昏空に持ってかれてさー」  別にただ単に、好きになれるような娘がいないだけで、オレの思考はいたってノーマルだ。いや、未だにそんな感情持ってたような覚えもないから、どうなのかホントのところは分かんないけど。 「おーいおまえたちー。席に着けよー」  担任の声と共に、ばらばらと各々のペースで椅子に座っていくクラスメイトたち。牧衛も、また後でからかってやるから待ってろよな、と冗談めかして言ってから自分の席へ戻っていった。  オレは窓際の一番後ろという特等席だ。こんな席につきながらまともに教師の話を聞くほど、オレは真面目な優等生じゃない。そのときは、白雲の流れるさまをとくに見るとも意識せず見ながら、その先で今も輝いているだろう、昼は見えない星のことを思っていた。  地球人はよく『星が出た』『出ない』というが、いつだってそこに星は光っているはずなのだ。ただ太陽に自らの位置が照らされているか否かという問題だけなのに。  昼に星が見えるとしたら、どんな色なのだろうとふと思いを馳せた。おそらく同じ色だろうか、それとも光の僅かな加減で変わって見えるものなのだろうか?月は時折、昼間でも不躾にそのすがたを見せるというのに、星は謙虚にも自分の舞台は夜だけと決めているらしい。  もしかして人の知らないところでは、とんでもないような活動をしていたとしても、それも知るところとならなければ、ないと同じことになってしまうのだろう。  そんなことを思い巡らせながら、こんなの高校男子にあるまじきメルヘンチックな考えが過ぎるか、と心中で苦笑する。  担任の出席を取る声は、遥か遠くに聞こえていた。  今日も平和に時が流れていく、とは言い難いかも知れないけれど、まあそこそこ、居心地悪くならない程度の朝だった。  こんな日々が下らなく続いていって、きっとオレは大人になってもこんな風にのらりくらりと生きていて、そのまま老いて死んでいくのだと、信じていた。
 崩壊というのはいつだって、突如として起こるものなのに。