2.5. Under the cherry tree 〜part3

 
  
    
     いつものように木実が小雪の部屋にノックして入ると、小雪はパズルの前にいなかった。  長く伸びる人影に気付いて窓を見ると、小雪が窓辺に立って外を眺めていた。逆光の夕日が銀の髪に映え、オレンジ色に輝いている。一瞬その姿に見とれ、はっと我に返って声をかける。 「なに見てるの?」  ゆっくりと隣に近づき、小雪の目線を辿る。目線の先には一本の桜の木があった。Φの入り口にあったのとちょうど同じくらいの桜の木が、これも満開に咲き誇っている。 「ああ、桜だね。ゆきちゃん、桜、好きだよね」  毎年この時期になると、よく小雪は桜を見ている。それは桜の花が全て散り、葉桜になるまで続く。 「何か思い出とかあるの?あるわけないか。ゆきちゃんも僕も2才からここにいるんだもんね。覚えてないよね」  ここに来る前の記憶はほとんどない。母親の顔も覚えていない。 「あるよ」  小雪は桜から目を離さずに言った。 「桜、散ってた」  小雪がここに来たのは春だった。桜が咲いていたかも知れない。 春なのに小雪が舞っていて、そしてそれがそのまま彼の名前になった。  最初聞いた時は、なんて適当なと怒りすら覚えたが、今となっては、小雪に良く似合うと木実は思う。 「そっかあ、覚えてるんだ。僕もゆきちゃんが来たときの事覚えてるよ。」  小雪を初めて見た時、透き通って向こう側が見えそうだなと思った。ペアを組むんだよと聞かされて、それの意味は分からなかったけれど、弱々しく頼りなげに見えた小雪の事を、自分がずっと守っていかなくちゃと幼いながらも心に刻み込んだ。そしてそれは小雪が優秀な殺し屋として成長した今も変わらない。 「でも、それって、桜は別れの花って事だよね。じゃあ、桜ってゆきちゃんにとって、悲しい花なんじゃないの?」  首を横に振る小雪に、木実は不思議な気持ちでたずねる。 「どうして?」 「ナッツがいた」 「え?」 「桜の向こうに」 「ゆきちゃん…」  桜の花は小雪にとって、別れの花、そして新しい出会いの花。 毎年毎年それを確かめながら、小雪は桜を眺めてきた。 「ゆきちゃん、来年も、それからその次も、ずっと一緒に桜見ようね」  胸がじんとするのを感じ、木実は小雪と同じ桜を見ながら呟いた。  小雪が小さく頷いた気がして、いっそう胸が熱くなる感じがした。

「…帰って来ない…」  5時半。薄暗くなりかけた外と、壁の時計を見比べながら、由宇也のイライラはますます膨れ上がっていた。 「あんのやろう、もしこのまま外泊でもしやがったら………殺す…」 「おミズがそんな大それた事できるはずないだろ。落ち着けよ由宇也」  今日何度この科白を言っただろうと、純はため息をつき続ける。 「いやあ、あいつならやり兼ねねえ」  あながち冗談でもないかもと思う純だった。

 『爬虫類と写真を撮ろう』は思ったより盛況で、終わった頃には6時を過ぎていた。夕闇が迫る桜の木の下では、あちこちで宴会が始まっている。 「遅くなっちゃったねー」 「ああ、もうどうにでもなれって感じ」  とにかくお説教は必須。それは最初から覚悟しているけど。下手したらまた、毎日腕立て2000回とか腹筋3000回とか…。そんな事してたら昼寝の時間が無くなりかねない。言い訳は今から練っておいた方が良さそうだ。 「淳、ねえ、あそこヘンだよ」  考え事に入りかけた淳の腕を由利香が掴む。 「ヘンって?」 「あそこ」  由利香が指差す方を見る。暗がりでOLらしい女の子が一人、男3人くらいに囲まれている。  遠目でも、女の子が困っているのはわかる。 「なんでああいうの見つけるんだよ」 「だってー、見えちゃった」 「あーもうっ!無視できねーじゃん」 「だよねー。頑張れ淳」 「へいへい。ユカここにいな…って危ねえか。いいや、いっしょに来な」  ずんずん歩いていって、背中を向けている男の腕を後ろから、グイっと引く。 「ねえ、お兄さんさあ、嫌がってんじゃねえのその人」  男は振り向き淳を見て、呆れた顔になる。 「なーんだよ、ガキじゃねーの。おまけに細っこいの」 「うっせーな、悪かったねコドモで。彼女、嫌そうじゃん。止めれば」  女の子は淳を見て、ホッとしたような、心配そうな複雑な表情になる。 「ユカ、そんなおれって頼りねえ?」 「うーん、見た目」 「ひでっ」 「別にいいんだぜ。あんたの彼女置いてってくれても」 「おれは、やだぜそんなガキ。ロリコンじゃあるまいし」 「しっつれーねっ!」  由利香が『ロリコン』と言った男の向こう脛を思いっきり蹴り付けたのと、別の男が淳の後ろに回り、両腕を上から羽交い絞めにしたのが同時だった。 「あー、バカ、先に手出すなっ!…ってぎりぎり同時か」  言いながら淳は後ろの男の手首を探り当て、すかさずひねり上げる。一瞬力が抜けたのを見はからって、そのまま男の後ろ側に腕をねじ上げると、男の肩の関節が外れた。 「あ、やり過ぎた。でもさ、おにーさん、羽交い絞めは下からしねえと意味ないって。慣れてないでしょ」 「このやろうっ!コドモだと思ってればいい気になって」 「いい気になってんの、そっちじゃん。3人がかりはどう考えたって卑怯っしょ」 「てっめえっ」  2人一度にかかって来るのをさばきながら、 「ユカ、おねーさんとどっか安全なところに避難してて」 と由利香に声をかける。 「分かった。」  由利香は女の子の手を引いて明るいところへ連れて行く。  女の子は心配そうに淳の方を振り返りながら 「あ、あの、大丈夫、あなたの彼?」 「へーき。淳、場数踏んでるから。5人くらいまでは素人相手なら勝つって言ってるから。」 「し…素人って」 「素人は素人だよ、あ、帰って来た」  淳がぱたぱたと服のホコリをはたきながら戻って来た。 「弱ぇー。ってか、ユカ手出すの早過ぎ。だめだって先に手出しちゃ」 「えー手出してないよ、足しか」 「ばっか。ほら帰るぞ。おねーさん、また変なのに捕まらない様にね。美人は一人で暗いとこ行っちゃ駄目だよ」 「え?あ、ハイ」  女の子はぽっと頬を赤らめる。 「送る?どこ?夜桜見物に来たんでしょ」  彼女は近くの会社のOLで、同僚と夜桜見物の予定だったが、残業があって少しだけ遅れたところで、男たちに捕まったとの事。 「だめな奴らー。女の子一人で来させんなよな」 「淳、男女差別」 「ちげーよ。カワイイ子は男だってあぶねえ。場所わかる?」 「ええと…」  迷っているところに、同僚らしき男が現れる 「岩下さん!ああ、良かった。今、絡まれてる女の人がいるって聞いたから、心配してたんですよ」 「それ、私。こちらに助けてもらったの」 「え!?君がっ!?」  淳を上から下までねめつけるように眺め回す。 「何だよ。感じ悪ぃー」 「淳、見た目、弱そうだから」 「また、そういう事を…」  男は2人を見ていたが、思いついたように 「ええと、君たち夕飯食べた?」 「まだだけど」 「良かったら寄って行かない?我が課のマドンナの岩下さんを助けてくれたお礼しないと」 「やったータダ飯」  宴会会場に向かう間に由利香が小声で聞く。 「淳、マドンナって何?」 「皆に人気の憧れの女の人の事。」 「男の人の場合はどう言うの?」 「男は…あれ?なんだろ、マッド…ちがうな」 「…面白いね、君の彼女…」 「こいつ、常識ねえから。たまに無茶苦茶言うよな」 「ひどいー」  宴会会場は一番大きな桜の木の下だった。20名足らずの課員たちがすでにてんでに飲み食いを始めている。どうやら、この課の場所取り係は優秀だったみたいだ。 「あー、岩下さんいたの?良かったー」 「誰その子たち」 「かわいー」  口々に騒ぐ社員たち。若い会社らしく、社員も全体的に若目だ。  岩下を迎えに来た男子社員が説明し、皆は由利香と淳のために場所を空けてくれた。 「勝手に食べてね。何か飲む?」 「だめだよー、きょーちゃん、飲ませて若い子誘惑しようとしちゃあ」 「きゃはははー」 「あー、おれアルコールは…」 「どうして、飲めるんでしょ、最近の高校生は」 「いや、ちょっと、おれはそういうの苦手なんで」  にっこり笑ってコーラを受け取る。 「ユカもコーラ貰う?何、鳩が豆鉄砲喰らったみてえな顔してんだよ」 「淳が、淳がお酒苦手って…」 「あほか。おれが酔ったら、おまえ帰れんのか?電車分かるか?」 「あ…。」 「全然わかんねえだろ。おれはこの辺で夜明かししても平気だけど、ユカにそんな事させたらマジ殺される」   小声でこそこそ話していると、淳の隣の『きょーちゃん』と呼ばれた女の子が 「なにか取ってあげようか」 と声をかけてくる。 「あ、自分で取ります。ユカ何食べたい?」 「えっとねえ、唐揚げと海苔巻き」  受け皿に取って、由利香に渡し、自分の分を取っていると 「仲良いのねえ」 と揶揄気味に言われる。 「えっとお、実はおれ達は腹違いの兄妹で…」  昼に使った設定を繰り返そうとすると、さっきの男子社員に 「君、さっき僕が彼女って言った時否定しなかったよね」 と指摘された。 「え?そ…そうだっけ?あっれー変だなー」  こんなところで墓穴を掘るとは思わなかった。人間どこで足元掬われるか分からない。  淳が必死に言い訳を考えているその隣で、由利香は 「桜きれい。夜桜見られて良かったー」 とじっと上を見上げている。つられて桜を見上げると、昼とはまた違う幻想的な雰囲気。ちょっと妖しい感じすらする。 「ほんとねー」  『きょーちゃん』もコップを口に運びながら、しみじみと桜を見上げる。 「お花見とか言っても、あんまりいつもはちゃんと桜見ないものね。」 「そうだよな。やっぱり見なくちゃだめだよな」 「そうそう、そう言えばお花見だった」  しばし無言で、皆桜を見上げる。周りの喧騒の中でそこだけが静かな空間。 「いいね、桜」  誰かが言い出した。うんうんと皆頷く。 「日本人で良かったよなー」 「そこまで言うか」 「ははは」 「ありがとね。えーと…ユカちゃん、だっけ?お陰で今年はちゃんとお花見できたわ」  『きょーちゃん』が由利香に焼き鳥の串を渡しながら言う。 「食べる?ここの美味しいんだよ。それとも、彼が取ってくれたのじゃないと嫌かな?」 「え?そんな事ないです。どうもありがとう。それと…彼じゃないです」 「え?そうなの?どう見ても…」 「違うよね、ね、淳」 「え?あー、違う…かな?」 「ね。」  由利香は焼き鳥を一口食べて 「ホントすっごく美味しい。淳も食べた方がいいよ、これ」 「あ、そ」 「はい、これ」  『きょーちゃん』が、脱力している淳にも、焼き鳥を取ってくれ、小声で付け加える。 「なんか…大変そうね、あなた」 「慣れてんで…」 「もったいないなあ、モテるでしょ、あなた。わかんないわねえ。まあ、彼女いい子そうだけど」 「わかんなくてもいいよ、別に」 「はーん、すっごい好きなんだ、彼女の事」 「うっせーな、かんけーねーだろ」 「あ、開き直った。かっわいいー」  今度は由利香に 「ねええ、ユカちゃん、彼氏じゃないんなら、おねーさんが貰っちゃおうかな」 と声をかける。 「淳は…多分誰のモノにもならないと思いますけど」  はっきりした意思のこもる口調。 「あら、そう?」 「淳は、いつも淳だから。」 「あらら」  彼女は笑って、『なんだ、この子も…なんじゃない』と思った。 「いいわねえー青春だわー」 「きょーちゃん何言ってんの、大丈夫?」

 Φにたどり着いた時には11時を回っていた。警備員は2人を認めると、渋々門を開け、 「まったく、出門と入門のデータが合わなくなっちゃうじゃないですか」 と文句を言った。 「ごめんなさい」  由利香は口では謝っているが、顔は笑っている。  警備員は電話をかけ始めた 「ちょ…とっ、どこかけてんの!」 「麻月さんがお2人が戻って来たら連絡してくれとおっしゃってたので」 「げ、やば。また壁乗り越えれば良かった。ユカ、また走るぞ。部屋戻れ」 「わかった」  建物に走りこむと由宇也が立っていた。 「おミズ、てっめえ、何時までユカ連れ回して…うげっ」  淳が体当たりを食らわして、由宇也を床に倒す。そのまま押さえ込みながら 「ユカ、部屋戻れ」 「えー私も一緒に怒られるってば」 「おまえ、絶対疲れてる筈だから、早く寝ろって」 「えー?」 「いいからっ!」 「なんかなー。じゃ、行くよ。お休みっ!」  由利香が階段を駆け上がって行くのと同時に、由宇也が淳を払いのけた。淳はその場に仰向けに倒れこむ。 「おっまえなあ、、無茶すんなよ。最初っからユカを怒る気なんかねえよ」 「なんだ」  由宇也はそのままその場に座りこんで、 「とにかく断ってくらい行けよな」 「え?怒ってねーの?」 「自分の中では怒ってるけど、おまえの事を怒る気はねえ」 「なんだ、それ」 「しょうがないだろ。ユカの誕生日だからどこか行って来たんだろ。どこ行ってたんだ」 「花見。それから動物園」 「…健全だな。ホントにそれだけだな」 「あと、近くの会社の夜桜見物に混ざって来た」 「…なにしてんだよ、ホントに。」  呆れて返す言葉がない。淳が初対面の人と飲み食いしてくるのは、別に今に始まった事じゃないけれど。

 由宇也の怒りとは別に、無断外出の罰はきちんと与えられた。  淳には一週間毎日腕立て腹筋各2000回。由利香にはランニング毎日10キロ。由利香は淳に 「朝、いっしょに走らせてね」 と頼み込む。そして、これをきっかけに毎日走ろうかななんて考えている。  罰なのかなんなのかよく分からない。
  
 

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