2.5. Under the cherry tree 〜part2
「…逃げられた。」
戻ってきた由宇也は腹立ち紛れに、ドアを思いっ切り閉めた。
「やったー」
ほとんどが喜び、数名が
「あーあ」
とがっかりする。
「おまえら、何してたんだ」
「え?」
皆とぼけようとするが、武のメモが見付かってしまう。取り上げて、目を通し
「なんだよ、これ。ユカが可愛い妹モードで頼み込むのに100円って…」
「あ、それ、おれだ。」
千広が手を挙げる。
「外れたか」
「ほら、ちょっとミーティング途切れちゃって、暇だったからみんなちょっと息抜きしてただけよ由宇也」
優子がいつもの笑顔で由宇也をなだめようとする。
「みんな…みんなって、まさか、優子も賭けた?」
「やあね。私は一応、由宇也が追いつくほうに賭けたわよ。」
「一応って…。あ、ミネっ!おまえ何2000円も、おミズが逃げ切るのに賭けてんだよ」
「3000円にしようかと思ったけど、持ち合わせ無くて。おれの目盗んで脱け出してんのに、由宇也に捕まるわけねえ」
「おー、すげー自信」
「愛だよねえ」
「なんとでもほざけ」
*********************
「ユカ、次降りる」
あまり見た事のない車窓の景色に見入っていた由利香に、淳が声を掛ける。別に珍しい景色が広がっていた訳ではない。ごくごく普通のごちゃごちゃした都会の風景だ。でも、Φからあまり離れた事のない由利香にとっては、もの珍しい。
「たまには、いいだろ、電車乗るのも」
「うん。」
なんとなく、今まで由利香は電車を敬遠しがちだった。全然知らない人と隣り合わせるというのがどうも抵抗があった。中学に行った時は時間が短かったからどうにかなったけど。
今日は何となく勢いで乗ってしまったけど、こんなに遠くに来るとは思わなかった。でもなんだか今日は平気だ。
天気が良いせいかもしれないし、初めて壁乗り越えて脱け出すなんて事をして、ちょっと軽い興奮状態にあるせいかもしれない。
「ここ、どこ?」
改札口を出て、由利香は人の多さに目を丸くする。
「すっごい、人、たくさん」
「上野」
「へええ。ハチ公いるんだっけ?」
「それは渋谷。上野は西郷さん。ま、犬がいるのに間違いないけど。はい」
と片手を差し出す。
「何?」
「何ってはぐれるだろ。手つなげよ」
「あ、うん。えへへー」
「なんだよ」
「淳から手つないでくれることあんまりないから。」
「そっか?そんなの気にすんだ。わっかんねーな」
上野の山は確かに桜は満開だった。春休みだったが平日な事もあり思ったよりは人は少ない。
桜の下ではぽつぽつとシートが敷かれ、1人2人とスーツ姿の若いサラリーマンらしきものが寝転がっている。
「あれ、何してんの?昼寝?」
「多分、夜桜見物のための場所取り。」
「夜桜?暗いのに見えるの?」
「提灯とか点いて、ライトアップさせるんだろ」
確かに、桜の木の間にはずらっと提灯がぶら下がっている。
由利香は薄い光にぼんやりと浮かび上がった桜を想像してみた。きれいだろうな…。
「見たいなー」
「それはさすがに…」
「だよねー。夜は帰らなくちゃまずいよね」
「それこそ、由宇也が怖ぇ」
桜は正に満開で真下に立って上を見上げると、空いっぱいに桜が広がっているように見える。体全体が薄紅色に染まる気までして来る。
「きれー。」
桜の花びらがひらひらと由利香の髪の毛に舞い落ちる。漆黒の髪には、まるで小さな髪飾りのように映えて見える。
取った方がいいのかな、と淳が迷っていると、由利香が、人の波が飲み込まれて行く入り口に気がついた。
「あれ、何?」
「あれ?動物園だろ」
「動物園っ!」
とたんに、由利香は目を輝かせる。
「行きたいっ!」
そう言えば由利香は動物園も行った事がない。普通ならば家では行った事がなくても、幼稚園や小学校の遠足で行くんだろうけど。多分テレビとかで存在を知っているだけ。
でも、すぐに小声になって続ける。
「あ、でも、もしかして、高い?入場料」
正しくは入場料ではなくて、入園料だ。
「多分すげー安いかったはずだけど。100円とか200円とか」
「えっ!何でッ!だって、すごい珍しい動物さんとかいんでしょ。象とかライオンとか、ええと、プテラノドンとか」
「いや、多分最後のはいねえな」
「でもさ、でもさ、動物さん達のご飯とか、働いてる人のお給料とか、それで賄うんでしょ。なんでそれで足りるのっ!?」
「え…えーとお…多分東京都で経営してるからかなぁ」
あいまいな淳の答えに
「へーえ、東京都ってえらいねー。動物さんの事考えてるんだ」
と由利香は感心する。東京都が考えているのは、動物さんの事より、多分それを見に来る子供達の事だけど。
「パンダもいるか」
「え?パンダ?あの、白と黒のらぶりーなっ!?」
「らぶりーかなあ。あいつら雑食だから、結構獰猛だぞ。目の周りの垂れた模様に騙されてるけど、実は目つき鋭いし」
「どうして、夢壊すのよー」
「ゴメン」
「それに雑食が獰猛なら、人間が一番獰猛じゃない」
「それは、正しいだろ。」
「そっか」
「じゃ、行くか?」
「うんっ」
弾んだ声が返ってくる。
「動物園なんて、おれも10年ぶりくれえだ」
切符を買いながら思い出す。たしか幼稚園の遠足だった。列から外れて木登りしていて怒られた覚えがある。そんなんばっか。
入り口で地図を受け取って
「どこ行く?」
と聞くと由利香は既に、入り口近くの長い列に気を取られている。列の先にはパンダ舎が見える。
黙ってそこを指差す由利香に
「おれ、並ぶの嫌いなの知ってるよね」
と言っては見るものの、由利香の足はもうそこに向かっていて、気がつくと列に並んでいた。
「途中でキレても知らねえぞ」
「そしたら諦める」
どうにかキレずに、20分ほど並んで見たパンダはほとんど動かないが、由利香は
「すごーい、ホントに動かないんだ」
と感心する。淳はそんな感心の仕方もあるのかと、それに感心してしまう。
「次、象見たい」
象の場所はすごく離れている。
「あのさ、少し順番ってもんを考えてさ」
「だって象見たことないんだもん。ホントに鼻でなんか掴むの?」
「…なんか不憫だな、ユカ。いいや、象行こう、象」
「えーなんで不憫?」
******************
「帰って来ない…」
昼食時、由宇也はいらいらとした様子でぶつぶつ呟いていた。
「ちょっと出かけるにしては長すぎる」
「折角出かけたら、多分夕方までは帰らねえよなあ」
「ミネっ!なんかあったら、おまえの監督不行き届きだからな」
「なんかってなんだよ」
「なんかって…なんかだよ」
「おミズにそんな事できるわけねえだろ。」
「わかんねえだろ。いつもと違う環境でついフラフラと…」
「それは、期待…じゃなくて心配しすぎ」
「なんだっその言い間違いっ!?」
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そのころ由利香は初めての動物園に興奮しまくっていた。
「わ、すごいっ、猿、猿だよ。あ。キリン、首長いんだねーホントに。わ、シマウマ。ああやって縞付いてるんだ。あれ、かば?あ、ちがったバクだって。ほんとに夢食べるのかな。ねえ、ライオンどこ?」
淳は、つくづく体力があって良かったと、自分の持久力に感謝していた。およそ、『端から』とか『順序よく』という概念のない由利香の歩き方には、並大抵の体力じゃ付いて行けない。本人は興奮しきってるから疲れないようだけど。
「おまえさあ、疲れたからおぶってくれとか言われても、おれ無理だからな。考えて動けよ」
「大丈夫だよー。ダテにΦに長年いないよ。白熊だー。ちょっと黄色いね」
動物園の中にも桜は咲いていて、中でお花見がてらお弁当を広げている家族連れもいる。由利香はちらっとそっちに目を向けた。…が、すぐに笑って
「お腹すいた。なんか食べよう」
と言う。そう言えばもう1時を回っている。食堂に出来ていた列も一段落ついたようだ。
「こーゆーとこの飯、不味いんだよな。外出て食わねえ?」
「やだっ!まだ見る」
由利香は地図を広げる。
「まだ、爬虫類館も、夜の生き物館も、見てない!ふれあい動物園も行きたいし」
「あーはいはい。」
しょうがない、今日はとことん付き合うか。でも、もう一度並んでパンダ見るとか言い出したら嫌だなと思いながら、淳は地図で最寄の食堂を調べ、そこに向かった。
食堂前のケースには、町の食堂に良くあるようなメニューのサンプルが並んでいる。ラーメンにチャーハン、カレーに親子丼、カツ丼、お子様ランチ。
「いいなあ、お子様ランチ」
「いくらユカがガキでも食えねえぞ。小学生以下だから」
「そっかあ。食べてみたかったなあ。こういう所は何が美味しいの?」
「美味いかどうかは疑問だけど、無難なのは、まあカレーか。カレーってどこで食っても、凄まじく不味い事はまずねぇから」
カレーを注文して空いていた窓際の席に着く。
「手洗ってくるねー。」
「手?ああ、食事の前には手を洗うってヤツね。食うのスプーンだからいーじゃん」
「えー洗わないと気持ち悪い」
「わかったわかった。洗って来い」
食堂からは動物の檻は見えず、人の流れが見えるだけ。
ほとんどは家族連れだが、同年代のグループらしきものも割と多い。花見の季節なのでそこから流れて来たようだ。淳にとって意外だったのは、カップルが結構いる事。
『へー、動物園ってデートで来るんだ。まあ、不細工なヤツもカバとかゴリラとかの前だと少しはマシに…』
なんて、ひどい事を考えていると
「あのー」
と声をかけられた。
振り返ると、高校生くらいの女の子3人連れ。
「お一人ですか?」
『ばっかか。何が悲しくて、オトコが一人で動物園なんか来んだよ』
と思いつつも
「ううん、連れがいるけど」
と答える。
「あの…デートですか?」
『あれ?デートだったっけ?違うよな』
「違うけど」
女の子達はきゃあきゃとお互いにつつき合い、一人が
「じゃ、あの、よろしかったらご一緒しませんか?」
と言い出した。
『あらら…。女の子も3人いると大胆だよな。一人じゃぜってえ声かけて来ねえのに』
そこへ由利香が戻ってくる。
「あれ、どうしたの、淳」
「おねーサン達が、いっしょにどうですかって」
『おねーサン達』は由利香を怪訝な目で見る。
「デートじゃないって…」
「違うよな、な、ユカ」
「うん。」
由利香は早速『いただきます』と言ってカレーを食べ始める。淳が女の子達に囲まれてるのはいつもの事だ。
「おまえなー、おれ、待ってたんだぞ」
「お腹空いたもん」
「ったく…。」
女の子達に向き直り、話し始める。
「ええと…、おれたち実は腹違いの兄妹で、幼くして両親を亡くして親戚の家にやっかいになってたんだけど、おれが中学出てパチンコ屋に住み込みで働き始めてから2人で暮らし始めたんだ。それは鬼のような店主で一年間一生懸命働いて、今日やっと休みがとれ、折りしも今日は妹の誕生日で、桜が満開、花見を兼ねて動物園でもってことで。久しぶりの兄妹水入らずの休日なんだ。2人だけで過ごしたいんだ、せっかくだけど。」
「そ…そんな事情だったら」
「無理にとは」
「ありがとう。」
淳はにっこり笑って手を振る。女の子達は名残惜しそうに振り返りながら外に出て行った。
「あー行った行った」
と淳はスプーンを取り上げる。
「淳ってホント、スラスラ嘘が出るよね」
「ちょっとは本当だろ」
「誕生日と桜が満開しか合ってないじゃない。」
『2人で過ごしたいも本当だけど』と淳は思ったけど、まあ言えるわけない。
カレーは確かにまあまあだった。レトルトカレーっぽい味だったけど。なまじな手作りよりはマシかも知れない。
由利香はいつもの倍近くのスピードで食べ終える。
「ごちそうさまっ!早く行こう、爬虫類館」
「ちょ…ちょっと待てよ。」
「蛇ー、鰐ー、トカゲー、亀ー、蜘蛛ー」
「最後、違うっ!」
急いで食べながらも、突っ込みは忘れない。
お皿を返して爬虫類館へ。
「今だと、蛇巻けるよっ!」
入り口のポスターを見て由利香が嬉しそうな声を上げる。
「蛇…巻きたい?」
「うんっ!イグアナ肩に乗せるのとどっちがいいかなあ。オオリクガメにも乗れる」
「はああ…」
「インパクト強いのは蛇だよね」
ポスターをよく見ると、申し込みをしておいて、出来るのは4時半に閉園してからになるらしい。お一人様一回限り。記念の写真も撮ってくれるとの事。
「蛇って、まだ冬眠してんじゃねえの」
「大きいのはきっと違うんだよ」
「なんか蛇が気の毒…」
「えー?じゃ辞める?」
「あ、いい、いい。せっかくだから、蛇でもなんでも巻いとけ」
「どれが似合うかなあ」
「似合うって…。知らねーよそんなん。っつうか、蛇とかイグアナ似合って嬉しいか?」
「うん。淳は嬉しくないの?」
ちょっと、想像してみる。肩にイグアナを乗せた自分…。
「…結構、嬉しいかも」
「でっしょー。淳も巻こう」
「あ。じゃあ、おれイグアナ」
「イグアナも可愛いよねー」
などと盛り上がっているが、4時半以降にそんな事していたら、また帰るのが遅くなると思うんだけど、それでいいんだろうか。この分だと多分夕飯にも間に合わなそうだ。