「…っ?」  金花が目を覚ましたときには、そこはすでに、先ほどまで居た部屋ではなかった。 『あ。私の部屋だ』  寝起きのぼんやりした頭の中で、金花はそんなことを考える。  金花の部屋は、姫のものとしては小さめのものであった。といってもまあ、この部屋で行うことと言えば眠ることがほとんどのため、8畳あれば十分に事足りた。布団も普段は押入れに仕舞ってあったし、主人がいないときのこの部屋は、随分と寂しい和室に見えるはずだ。もっとも金花には、その光景を見ることができるわけもないのだが。  部屋の中に置いてあるものは、白地に淡い色をした桜柄のもので統一されていた。布団も、畳のへりも、化粧棚も、箪笥も、一応カギが付けられるようになっている襖も。  ただその規格から外れているものと言えば、金花の目の前にあるこの、黒っぽい固まり―― 『…え。黒?』  金花は黒が嫌いではなかった。 しかしこの部屋のものは思いつく限りすべて、白を基調とした色合いで統一されていたはずである。かつて金花が、母親に『白は汚れが目立つからやめなよ』と言ったこともあったのだが、何故か却下されてしまったのだ。 ではこの、黒色は何だろう。 金花が不審そうな顔でそれを見つめていると、その黒いかたまりは、いきなり動きだした。 「!」  思わず上半身を起こし懐に手を入れ、『武器』を取り出そうとしたところで 「わああんコノー。気が付いたんだねっ」 と『かたまり』が嬉しそうに叫ぶ。 「あ――柚ちゃんか。」 黒っぽく見えたのは柚莉の少し紫がかった黒い髪だったのだ。後ろを向いて少しかがむような姿勢になっていたため、どうも頭しか見えなかったらしい。  柚莉はそんな格好でなにをしていたのかと言えば、なにやら怪しい薬を、その場で混ぜ合わせていたのだ。  赤黒い色と紫と黄色が交じり合い、怒涛の配色を創り出しているそれを一目みて、金花は鼻を覆った。 「ぐええっ、何それくっさー」 「えー。でもすっごい効くんだよー」 「何の根拠があって?」 「実験、ちゃんとしたもん」 「…誰で?」 「しゅーじさん」  金花ははああああっ、とため息をついた。 「あのねーアンタ、そんなの人に強要すんじゃないわよ」 「えー?」  柚莉は不満そうに頬をふくらます。 「えーじゃなくて」 「だってじゃあ、どうやって試すのさー」 というのも、柚莉には薬がまったく効かないのだ。  これはもとからの体質とかではなく、幼いころから実験をひたすら繰り返し、色々な薬などを研究して、試験的に投与しているあいだに、さまざまな薬に対する耐性が作り出されてしまったらしいのだ。当然のことながらウィルスも効かず、その点では実験成功といえるだろう。代わりに味覚芽の働きも鈍くなり、物を食べても味の感じられない体にはなってしまったが。 「知らないわよ、そんなの。そのまま処方すりゃいいじゃない」 「えー?これって研究すれば商売にもなると思うのにー」 「あのね、柚ちゃん。そんなその場しのぎのことで金稼ぎしたって、意味ないでしょ。経済ってのは、1人で作り出して支えるもんじゃなくって、もっと根本から改革しないとダメなんだから」  言い終わってから金花は薬を手に取った。強烈な、腐った果実臭が漂っている。しかし金花は観念したような面持ちで、片方の手で鼻をつまむと、一気にそれを飲み干した。 「だから、ちょっとした資金稼ぎ程度に思ってさー」 「…ぐええええっマズっ」 「あ、水出す?」 「いいっ!他の味があるとよけいマズい気がするっ」  吐きそうな顔をしながらも金花は、それをやっとのことで飲み下した。安心したように、息を吐く。 「そうだコノ。話変わるけどさ」 「何よ」  口の中に広がっている嫌な後味のせいか、金花は明らかに不機嫌な声で聞いた。 「さっきはなんで倒れたの?」  すると、金花の体は、ふっと後ろに倒れていこうとする。 「うわあああコノっ!」  金花よりも小柄で、力もあまりない柚莉が、それでも必死に金花を留めようと、着物の袖を掴んだ。それで持ちこたえることはなかったのだが、おかげで金花は朦朧とした意識をはっと目覚めさせて、自力でなんとか起き上がってくる。 「あ。ご…めん、ダイジョブでス」  その割にロボット化している。 「コ、コノ、90%も確率があるなら、大丈夫だよ!思いっきり合格圏内じゃない!」  柚莉はぐっと右手の親指を突き出した。  しかし 「…それ、ちゃんとやってたら―でしょ?」 「え」  言葉の裏に隠されたものをなんとなく読み取って、思わず柚莉は凍りついた。 「あ、でも…ホラ!ときどき休んだくらいならっ。もともと、コノって頭いいし―」 「仮に半分だったとして、確率はその半分だから4割5分以上?」 「いやいやいや!確率ってそーゆーモンじゃないよっ。やらなくても普通、3割はカタイでしょ?だから―」 「柚ちゃん。」  金花はその一言で、柚莉を黙らせた。そして一拍置いて 「落ち着いて聞いて」 「…はい」  いやだ聞きたくない、と心の片隅で思いつつ、それでも聞かないことには仕方ないと思って、諦め気味の柚莉は、金花の次の言葉を待った。 「1コ置きくらいだと、どれくらいの確率だろうね」 「1コ置き…?」  悩みあぐねた後に、柚莉はほっと息をつく。 「なーんだ、1日おきかあああっ。そんなら、全然オッケーじゃん!」 「いやだからさ。1年おきだよ」 「……………」 「……………」 「……………」 「……………」 「ぎしゃぇぇぇぇぇぇっっっっっ!!??」 ばきいっ! 柚莉の頭に金花の拳が振り下ろされる。 「いたあああっ。なんで殴るのコノっ」 「落ち着いて聞けっつったでしょうが。」 「あ、そうだゴメン…って、何でぼくが謝るのさ!」 「アンタが悪いから」 あっさりと即答する金花。 柚莉はしばらく頭を抱えていたが、深く追求はしないことにしたらしい。だいたい、本来の問題はそこじゃない。 「…つまりコノ、1年1回くらいしか聞いてなかったの?授業」  脇に敷いた座布団のうえに、腰をしっかり据えながら、柚莉は問い返す。 「ま。そーゆーことね」 涼しい顔をして言う金花に、思わず柚莉の体から力が抜けていく。 「なんでだよっ!」 「だって、深遠ちゃんの授業つまんなかったんだもん」  単純明快かつ、これほど子供じみた発言はないんじゃあないかと、柚莉は再び頭を抱えた。 「…あのさ。今から受験までがどのくらいだか、分かってる?」 「知らない」 「あと4ヶ月もないのっ!コノのライバルたちはみーんな、血なまこになって勉強してるのっ!」 「血なまこじゃなくて、血眼だよ」 「そんなこと言ってる場合じゃなーい!」  しかし金花は今の柚莉の言葉で、よけいに自信をつけたようだった。 「なんだ。4ヶ月もあるんだ」  まあ確かにそういう考え方もある。しかし受験というのは普通、もっとシビアである。 「コノ…。あのね、あなたが受けるのは国立で、咲夜イチの難関校と言われるトップ中のトップ校なんだよ?」 「へー」 「へーじゃなーいっ」 「だって、別に大丈夫だよ」  金花は柚莉の目を見て言った。 「…なんで?」 「確実に『受かる』人はいるわけでしょ。だったら平気。」  するといきなり起き上がって、つかつかと襖の方へ寄って行くと、それをガラっと開けた。 「ちょ…コノ、どこ行くの?」  慌てて柚莉が聞いた。 「図書館。鷲ちゃんに勉強教えてもらうの」 「さっき倒れたくせに、なんでいまそんなに強気なんだよっ」 「いやあなんか、聞いてたら大丈夫だなーって気になってきちゃった。それにまだ、時間もあるし」  そしてそのままずんずんと、図書館のほうに歩いて行った。  柚莉もすかさずその後を追っていたが、しばらく経つとその差はどんどん開いて行く。ずっと昔に建てられたこの城は、人があまり住んでいないにも関わらず無意味に広かった。もともと金花と柚莉の間には20cm以上の身長差があるため、そのコンパスの長さだけでもかなり不利なのに、柚莉は運動が得意じゃないのだ。いや、はっきり不得手と言ったほうがいいだろう。 もしその時、金花が急に何かを思い出したように、ぴたりと足を止めなければ、おそらく視界から見失ってしまっただろう。 「そういえばさ、柚ちゃんも受験勉強しなくていいの?」 「え゛?」 金花の告白の衝撃で忘れてたけど、そういえば。 「柚ちゃん、私より勉強してないよね。歴史とか理科はいいかも知んないけど、国語と算数は?読解力ないしー、綿密な計算は得意そうだけど、なんか論理的思考力とか、あんまなさそうだしー」 「う…」 「私にばっか構ってないで、自分の勉強したら?」  しかし柚莉は食い下がってくる。 「じゃ、じゃあ一緒にするっ。そっちのが効率いいしっ」 「えー?柚ちゃんが来ると勉強にならないじゃない」 「やだっ。ぼくが一緒じゃないなら、図書館には行っちゃダメっ」 「何でよ。アンタに指図される覚えなんかないんだけど」  やや高圧的な柚莉の言葉に、金花はむっとして言い返す。 「だって危険だよ!」 「キケン?」  金花は顔をしかめた。  図書館に何か、怪物でも飼っているというのだろうか。それとも、本棚から本を引き抜こうとしたら、それは実は、本に化けた魔物だったりするのだろうか。  しかし柚莉からの答えは、金花の期待(?)とはまったくかけ離れたものだった。 「マズいよ、図書室なんて薄暗い密室で若い男女が二人っきりになったりしたらっ!」 「薄暗い密室なのは書庫の間違いじゃ?」 すかさずツッコミ返す金花。大体、図書館が薄暗かったら、本が読めない。 それに、図書館管理人の鷲士は若いといってももう26歳だ。そういう趣味の人でない限り、12歳の金花に手を出そうとは思わないだろう。 まあ、例え誰かがそれを柚莉に指摘しようと 『しゅーじさんがそういう趣味じゃないってどうして言い切れるの!?』 の一言を切り返されてしまうだろうけれど。 「とにかく1人で図書館に行くなんて、許さないんだからっ。コノが行くなら、ぼくも行くからねっ」 「えー?やだよ、柚ちゃんがあそこ行くとロクなことにならない。」 「そんなことないもん!」 「だってこないだ、本の山崩したじゃない。1万冊も。あれ、戻すの大変だったでしょ?」 「あっ、あれはちょっと手が滑ったのっ」  柚莉は自分の背中をひやりと冷たい汗が流れたのを感じた。  あの時は実は、寝る前に少しだけ鷲士のところに顔を出そうという話になって、数十分そこで時間をすごしたのだが、金花が『そろそろ帰って寝よっと』などと言い出すから、引きとめたくてわざとやったのだ。 しかし、金花にそんな乙女チックな気持ちがわかるわけもない。何せ金花は極度の恋愛オンチというか、恋愛感情が完璧に欠落している、というやつだ。そんな映画や漫画にしか出てこないような、微妙な恋心なんてものがわかってはたまらない。  まあ、柚莉のその心理も少し、10代男子として普通とは言い難いかも知れないが。 「とにかくっ。あんなトコ1人で行ったら危ないんだよっ!ぼく、こないだしゅーじさんが、図書館の最奥に隠し扉つくってるの知っちゃったんだからっ」 「へえ。夢があっていいじゃん。あ、黒魔術の研究してるのかも」 なぜか期待するように言う金花。 「危ないよー!一人で行くのはんたーい!だいたい、ぼくも受験に受からないと、コノは学校に行けないんでしょ!?」 柚莉は最後の切り札とばかりに、受験の事を持ち出す。 「あ…」 すると途端に金花の顔は青ざめていった。 「ね?」 対する柚莉は、勝ち誇ったような顔。 といっても、実際は負けを宣言したに等しいのだが。 『柚ちゃんのこともあったんだ…どーしよ』  金花が悩んでいると、いきなり壁から蓮花の頭が生えてきた。 「うわっ!」  そういえばここは、ちょうど玉座がある部屋の前だった。壁ではなくつまり、襖の隙間から頭を出していただけのことに気がつき、金花はほっと安心する。 「言い忘れてたけど、ゆーちゃんが受かんなかった場合は仕方ないから、あんた1人に行ってもらうよ」 「ホントっ」 「ええええええうそおおっ!!!」  喜ぶ金花と悲嘆に暮れる柚莉。 「ちなみに、金花が受からない場合はまあないと思うけど、そんなときはゆーちゃんの判断に任せるから」 と蓮花は付け加えて、引っ込んだ。 「えー、そんなの行くわけないのに。コノが行かない学校なんて無価値じゃないかー」 「何だもったいない。そしたら、私が柚ちゃん名義で通おっかな」 「えっ!それだったらぼくも行くっ」 「だから、私が柚ちゃんの代わりに行くんだから、無理でしょ」 「あ、そっか。でも別にぼく、1人だったら行きたくないし」 「じゃあ別に受けなきゃいいじゃない。受験だってタダじゃないんだし」 「そーだねー」  頷き、同意しかけてはっとする。 「って違うよっ。何、煙に巻こうとしてんのっ」 「ちいっ。バレたか」 「ぼくそんなにバカじゃないもんっ。」 「ま、いいや。とにかく私、一切アンタに力なんか貸さないし、アンタもまあ、せいぜい自力で頑張んなね」 「う…酷いよコノっ。こーゆーときって普通、一緒に頑張りましょうっ、みたいなカンジでさ。それで、苦楽を共にするうちに、2人の間にはいつしか愛が芽生えていくんだよ?」 「何ごちゃごちゃ言ってんのよ」 「う…うわあああんコノのいぢわるうぅっ。ゆーちゃん泣いちゃうー」  柚莉は声を限りに、両手で顔を押さえながら天を仰いだ。 「泣けば?」 「えーんえーん」  大声を張り上げてはいるものの、しかしその大きな双眸からは、一滴のしずくも零れ落ちることがない。いや、それどころかときどき、遥か前方をすたすたと歩いて行く金花の様子を、ちらちら窺ってさえいる。  やがて、金花は廊下の角を曲がって、柚莉の視界から消えた。 「…コノのはくじょーもん。」  呟いてみるがしかし、金花の耳にその声が届くことはなく、また、彼女が振り向いて戻って来るようなこともない。