1.1. Three Years Ago,…and Now.part3
おれはその杉浦ってやつに連れられてテニスコートに立っていた。テニスなんて金持ちのお嬢ちゃんや、お坊ちゃんの遊びだと思っていた。見たこともなかったし、当然ラケットも握ったことなんてあるわけない。 隣のコートでは別の連中が練習していて、こっちをチラチラ覗っている様子。嫌な感じだった。 「グリップ正式には何種類かあるけど、とりあえず握り易いように持てばいいよ。君、手まだ小さいいし、多分正式に持つのは無理だと思うよ。要はラケットをボールに当てて相手のコートに返せばいいんだけどね…。」 「ふーん。カンタンそお」 何が難しいのか見当も付かなかった。ラケットはボールの割に大きく感じたし、ネットだってバレーボールとかに比べれば格段に低い。ボールはよく弾みそうだし、ちょっとぶつければ楽に飛んでいきそうだった。 「簡単かどうかはやってみればわかるよ。ボール投げるから当ててみて。時間ないから実践で覚えよう。」 ボールが飛んできた。ラケットに当てる…当ったには当ったが、ボールは真上に上がり打ち返すどころじゃない。 「ね、簡単じゃないだろ。それはさ、ラケットの面が…」 杉浦が説明しかけたのをさえぎった。人に講釈たれられるのは好きじゃない。 「っせーな、黙っててくんない?自分で考えるから。」 要は飛ぶコースは入射角と反射角の問題だ。何も力を加えなければ。ラケットの面の角度で飛ぶ角度は決まるはず。って事はもっと下に飛ばそうとしたらそっちの方向に力を加えればいいはずだし 「次行くよ。考えててもだめだから。」 体で慣れる時間がないんだから、考えるっきゃないじゃねーかと頭で毒づきながら次のボールに向かった。 2球目ははラケットの中心にあたって相手側には返ったものの、大きく飛びすぎてアウトになった。 「よく返せるな。」 杉浦が感心したように言ってるのがきこえたが、全然納得できなかった。 なんであんなにボールが浮くんだ?そうか下から力が加わってるんだ。じゃあ上から打てば良いって事だ。上から打つってことは、高い位置でボールを捕らえればいいってことだよな。 高く上がったゆるいボールが飛んできた。おれはネット際に走って出て、ボールが一番高く上がったと思ったところで、ジャンプし、ラケットを振りかぶって思い切りボールを相手側に叩きつけた。ボールは相手の足元に落ち、バウンドして跳ね上がった。ついでにラケットも手から離れて飛んでいってしまった。 「なっ…なんだよ」 杉浦が呆れたような声をだした。隣のコートで誰かが口笛を吹いた。 「まともにラケット握れないくせに、いきなりジャンプスマッシュうつなよ。あきれたやつだな。肩こわすぞ」 「スマッシュ?」 へえスマッシュっていうんだ。ラケットを拾いに行きながら、結構楽しいかもとか考えていた。 「それはともかく、ダッシュ力すごいなお前。本当に何もやってなかったのか?」 「いいから次の球くれない?時間ないんだろ」 ここまででもう20分くらいが経っていた。1時間でどのくらい打てるようになるものなんだろうか。どのくらいできたらどのくらいの評価を受ける事になるんだろう。もうずっと長い事、公正に自分の何かを評価してもらったことなんてなかった。ちょっとワクワクしていたかもしれない。 「生意気だなおまえ。ここで暮らすなら口の利き方きをつけた方がいいぞ。」 4球目はちゃんとサービスを打ってくれた。ボールに追いつくことはできるが、さすがに当てるのがやっとだった。 「おい、一回バウンドしてから打ってもいいの知ってるか?」 「聞いてねーよ。言えよそういうことは最初に」 「ほんっと、かわいくねえな、おまえ。」 なんだ、じゃあもっとちゃんとボールみられるじゃん。 5球目はどうにか返した。が、そのリターンは返せない。すっげー悔しい。 「くっそー」 ラケットに毒づいてると 「球に追いつくだけでも大したものだと思うよ。」 と慰められた。いや今思えば本当にほめていたのかも知れないが、その時は全然そうは思えなかった。 「おまえさあ、スピードあるけど、あんまりパワーはないよな。小柄だから仕方ないかもしれないけど。」 小柄ってわけじゃないと思うけど、何しろ12才で、ここ一年ろくな食事もしていないせいで、おれの身長は160cmを切ったくらいで止まっていた。12才にしては別に小柄じゃないとは思うけど、やつは180cmはあったから20cmの身長差があったわけだ。 おれはまた考えていた。力がなければスピードでカバーするしかないわけだ。そのぶん早く振り切ればいいって事だ。でもそれはグリップが甘いとさっきみたいにラケットがすっぽ抜けることになる。その時一つの事を思いついた 「あのさ、これって片手で持たないと駄目なの?」 「いや、両手でも。…しかしそれにはかなりの体のバランス能力が必要になるぞ。あと、打てる範囲も…」 「ほんとうっせーなあんた、聞きもしね−事ごちゃごちゃさ。」 「おまえ、いい加減にしろよ!」 やつが、つかつかと歩いてきておれを上からにらみつけながら、むなぐらを掴んだ。 「先輩の言うことちゃんと素直に聞けよ。」 「やる気?おれケンカけっこう強いけど?それにあんたまだ先輩じゃないじゃん」 多分その時のおれはすごく挑戦的な目つきをしていたと思う。やつの方もすごい目でおれをにらみつけていた …とその時 「あ!やっぱり!」 由利香の声がした。 「汀さんが絶対けんかになるから止めて来いって。」 また当てられた。そんなに判り易いかおれは。見張られているようで気持ちが悪い。思えばこの時から今に至るまで、おれはあいつのことがかなり苦手だと思う。 「杉浦さんケンカするなんてにあわないのに」 「ごめんごめん」 やつは手を放した 「けんかなんてしないよ」 「へー『ゆりかちゃん』のいう事はみんなよく聞くんだ。」 「そういう言い方はよせ。」 またにらみ付けられる。思わず手が出かけた時 「だから!ケンカなんてしてる場合じゃないよ。」 と由利香の声が飛んだ。杉浦は 「わかった、わかった」 と言いながら、戻って行った。30分が過ぎていた。
淳が目を醒ますと、自分のまわり数箇所だけ蛍光灯がついていて、あとは真っ暗だった。調理場の方も人影がなくきちんと片付いて明日に備えている様子。何しろ朝は7時頃から朝食を出さなくてはならないので、4時頃からはもう調理場に人が入り始める。ほんの数時間の静寂だ。 「目、覚めた?めずらしいねそんなに寝ちゃうの。」 向かいに座っていた由利香が声をかけた。健範や歴史は帰ってしまっている。当たり前だって。 「何時?」 「10時半」 2時間以上も経っている。 「げっ!起こしてって言ったじゃん。」 「だってすっごく気持ち良さそうだったし。」 由利香は悪気なくにこにこしている。 「あー、おれの夕飯。」 当然もう食堂では夕食は食べられない。 「治ったの?具合悪いの」 「治った…と思う」 勢い良く立ち上がろうとして…力が抜けてまたイスに崩れ落ちる。まだフラフラしている。 「淳てばゆうべ寝てないでしょ。」 「バレた?深夜放送聞いてた。あ…そう言えば昼も食ってない」 「…何か食べられそう?」 「ちょっと辛い。あーきっとこのままおれはここで餓死するんだ、何も食えねーで。」 「食堂で餓死!?新聞に載るね!」 「すっげー嬉しくねー…こりゃ点滴かなー。あのさ、明子せんせーいるかな」 藤原明子先生っていうのは、保健の先生。名目は保健の先生だけど、医師の免許も持っている。怪我の多い彼らのために簡単な手術くらいならひとりでさっさと片付けてしまう。汀翔一と交代でほとんどどちらかは医務室かどこかにいて、体調を崩した時は対応してくれるはずなのだが。 「翔一せんせーとどっちかはいるはずだけど。ちょっと見てくるね。」 由利香はパタパタと医務室に走って行った。 『あれ、そう言えば』 ふと思った。由利香は2時間もの間、一体何をしていたんだろう。食堂の中はテレビや本もないし、(長居する奴がでてくるからね)多分ひとりでいるのはすっごく暇だ。食堂は本当は9時までで、鍵をかけていくことになっているから、今日は眠りこけている淳のために特例であけっぱなしになっているのだろうけど、9時頃までは人がいたとしてもその後はほとんどひとりだったはず。 『時々わかんなーなあいつ』 淳が悩んでいると、由利香がひとりで戻ってきた。 「今日に限っていないんだ、二人とも」 「無責任だなあいつら…って、それ、なに?」 由利香は手に注射器とアンプルを持っていた。まさか… 「栄養剤。もう自分で打つしかないでしょ。点滴はムリだから注射」 と差し出す。注射だってムリだと思う、普通は。 「由利香さあ…時々すっげー大胆だよな。」 「しょーがないじゃない、動けないとまずいでしょ」 「自分で打つんかよ。さすがにちょっと怖いんすけど…」 「こないだやってたじゃない。明子先生におそわって」 確かに数ヶ月前明子先生が手を怪我した時、先生に教わりながら目の前で自分で注射した。もちろん本当はいけないけど。でもあの時は先生がいたし。ここに挿すのよとか指示もあった。しかしこのままじゃ動きがとれないし、もうやるしかないかも。 腹をくくってアンプルを見た。細かい文字が色々書き込んであるものの、よくわからない。ドイツ語っぽいし。 「あのー由利香さん…、これってほんとに栄養剤?」 「多分」 「多分って、あのなー」 「だってあそこの棚にあるの栄養剤か生理食塩水だけのはずだよ。青酸カリとかないと思うし。死なないよ」 「…お前ほんっと大胆な…。」 まあ、どうにかなるかと思いながら、あきらめてアンプルを開け、注射器に吸い込む。透き通った液体で注射器が満たされる。 思わずため息が出た。しばらく見つめた後意を決して静脈に刺そうとするが、 「由利香ぁ」 「何?」 「ふらふらして、手が震えてヤバイ。手押さえて。」 由利香は淳の右手を両手で包み込むようにして、押さえた。 「…だから、そっち持ってどうすんだよ。注射器持ってるほう。」 「あ、ごめん」 彼女もけっこう緊張しているのかもしれない。平気そうな顔しているけれど。 由利香に手をささえてもらい、静脈をさぐりあてて、ゆっくりと針を半分くらいまでさしこむ。シリンダーを押して慎重にすこしづつ、薬を注入する。 「なんか、覚醒剤(ヤク)打ってるみてー。」 「え!?やったことあんの?」 「ちょっとだけ」 「うそっ!」 由利香は驚いて思わず手を放した。 「冗談。」 淳は舌を出した。 「やっだーもうっ!」 由利香は思いっきり淳の背中を叩いた。 「ぎえっ!」 淳が声にならない叫び声を上げた。叩かれた勢いで、半分だけ入っていた針がいきなりズボっと全部ささり、同時に残りの薬が一気に静脈に流れ込んできた。2人は呆然と注射器を見た 「あ、ごめん」 「ごめんって言われてもな。抜くのこえー。今なんかグサっていったんだけど。」 「静脈だから大丈夫だよー」 「あほ。静脈だって突き破ってたら多分救急車だぜ。おれ多分出血多量で倒れるから、おまえ呼べよな。」 「わ…わかった。177だっけ」 「あしたの天気聞いてどーすんだよ」 「117?」 「それは時報」 「114?」 「あーっもうっいいっ。自分でどうにかするからっ。」 軽口をたたきながら、ゆっくりと注射器を抜く。幸い突き破るまでは行かなかったらしく、血が流れ出すほどではないがじわじわと染み出している。 「良かった。セーフ。」 「それ、セーフなの?」 見る間にどんどん血の染みは広がりポタっとテーブルの上に垂れた。 「まあセーフでしょ。ちょっと気分も良くなったし。ハンカチとかある?」 由利香は首を横に振った。建物の中ではたいていいつもみんな手ぶらだ。まあ中にはソーイングセットとか持って歩いている貴重な人もいないではないが。全体がいわば自分の家のようなものだから、家の中でハンカチ持ち歩く人、あんまりいないよね。食事も顔パスで、サインだけで引き落とされるシステムになっている。 「女の子はふつー持ってんじゃないの?」 言いながら、淳は自分のTシャツの裾をまくりあげて、歯で一部を食いちぎった。これ結構気に入ってたのになんてつぶやいて、そこを糸口にビリビリと細く布を引き裂いていった。裾沿いに2周くらい咲いたところでちぎり取る。包帯状の布切れができあがった。難点は腕に力を入れたのでますます血がポタポタ垂れたことだ。 「淳そういうの良くないって言ってるじゃない、いつも。女の子はこうあるべきとか、男はこうあるべきとか。」 「ハンカチはね、別なんだよ。仕方ないんだ。ハンカチに関してはハンカチ法って法律が適用されて、女性が持っていないと2週間の執行猶予期間、毎日の持ち物検査にパスしないと、罰として一週間バスタオルを持ち歩かなくちゃいけないんだよ。」 喋りながら傷口を締め付け、縛り上げる。 「邪魔なんだこれがさあ、バスタオル」 「60点」 呆れて聞いていた由利香が平然と言い放った。 「今日のそのウソ60点くらい。女性だけっていう必然性が薄すぎ」 「ホントなのになあ。…やっぱ余計出血した。」 血はどんどんにじんできている。 「由利香がTシャツやぶいてくれれば良かったのに」 「でっ…できるわけないでしょ、女の子に。男の子が着てるTシャツやぶくのなんて!」 「ほらお前だっていうじゃん」 「それとこれとは別でしょ!」 とりあえず傷の手当てを終えたところで、テーブルにできた血だまりを、巻いた布の肘の部分でふき取った。(適当だ)布はますます血まみれになる。それでも数分経つとどうにか血はとまったようで、それ以上にじんだ染みは大きくならない。 「よっしゃー!ふっかーつ!ナオ行くぞ。夕飯―」 血がとまったのを確認して立ち上がる。少しは薬が効いたのかどうにかふらつかない。 『ナオ』は地下にある夜だけやっている喫茶店。軽食くらいならあるし、リクエストで何か作ってくれる。 「夜食べると太るよ。」 「っせー。」