1.3. The Last Year. 〜part4

 
 
  
    
 その日の午前中、純は有矢氏に言われて、汀氏の家に資料を受け取りに出かけた。汀氏の家は、裏庭の向こう側の森を越えた所にある。森のこっち側は、一応繁華街と言っても良いほどの栄えを見せているが、森があるへんから、雰囲気が変わる。西側はただ殺風景な空き地や、雑木林が広がっている。人通りもほとんど無いので、ちょっと女の子の一人歩きは昼間でも危ない。  もっとも、女の子の一人歩きが危ないのは西側だけではない。東側は、道路をはさんで、通称『4丁目』と呼ばれている。昼間はただ薄暗い路地裏がごちゃごちゃとつながりあっただけの街だが、夜になると一変する。色とりどりのネオンが輝き、客引きのおねーさんやおにーさんが街角に立つ。怪しい店だけではなく、普通の喫茶店や、ライブハウスもあるのだが、街に詳しくない人が、そんな店を探し出すのはとても難しい。昼間は人影もほとんどなく、たまに歩いている連中もろくな奴じゃないから、危なく、夜はもちろん危ない。ここに行くのには、かなりの勇気と決心がいるのだ。 『なのに、あのばか、何度もさがしに行かせやがって』  純は、4丁目に淳を捜しに行った時のことを思い出す。一年住んでいた淳は勝手も分かっているからどうって事もないのだろうが、ほとんど足を踏み入れた事のない純はびくびくものだった。それに比べれば、汀氏の家に行くのなんて、カンタンだ。森を回りこんで行くから遠いけど。  汀氏の家は西洋風の落ち着いた煉瓦造りで、広々とした庭が広がっている。庭はよく手入れされた芝生で、小さいけれど噴水まである。家は大きく、ゲストルームが何部屋もあるらしい。端から端まで見たわけじゃないので分からないが。汀氏はそこに奥さんの夏帆(かほ)さんと二人で住んでいる。贅沢だ。なんでも家が代々医者で莫大な財産を受け継いだとの事。 庭にはシェパードがつがいで放し飼いになっている。見かけは恐ろしげだが、実は人にとてもよく慣れていて、汀氏に言わせると『番犬としての役目をなさない』のだそうだ。しかし見た目はなにしろシェパードだから、あいさつしようと走ってきただけで知らない人はビビる。ちなみに、名前はハナとタロだ。  そのハナとタロがしっぽをブンブン振ってじゃれついてくる中を、純は庭を突っ切って、玄関にたどりついた。玄関のチャイムを鳴らす  ピンポ〜ン  誰も出ない。少し待ってもう一度  ピンポ〜ン  今日は休みで汀氏も家にいる筈だ。買い物にでも行ったのだろうか。たしか、電話いれとくって有矢氏は言っていたのだが。  また少し待ってから純は続けざまに何度かチャイムを押してみた  ピンポ〜ン、ピンポ〜ン、ピンポン、ピンポン、ピンポ〜ン  しばらくして、乱暴な足音が階段を下りてくるのが聞こえた。ドアの外でも聞こえるって事は、かなり大きい音って事だ。明らかに汀翔一の足音ではない。ましてや、いつもおだやかな夏帆の足音でもありえない。一体だれなんだと純が訝しがっていると、その瞬間、怒号とともにドアが大きく激しく開かれた。 「てっめええ!!いい根性してんじゃねえか!なんの権利があってオレの睡眠妨げやがるっ!!」 「は?」  純は呆然としてその男を見た。年のころ20才くらい。身長は純より10cm近く高いだろうか。急いで羽織ってきたらしくシャツの前ははだけっぱなしだ。背中まである長い黒髪が乱れていて顔はよく見えないが、ザンバラになった髪の隙間から、鋭い光の目つきがこっちをにらみつけている 「あ、あのぉ、有矢さんの使いで」 「オレはそんな奴しらねえっ!知ってんのは、おまえが、オレの寝てんのを邪魔したって事だ」 「いやでも、もう11時過ぎだし…」 「おまえにオレの起床時間決める権利あるのかっ!誰に許可された!ああっ!?言ってみろよ!」 「そ…それはないけど」 「だったら、黙りやがれ。いいか?もう一度邪魔したら、わかってんだろうな」 「え?ええと?」 「ぶっ殺してやる」  男はそう言い残すと、純に向かって中指を立てて見せ、ドアを思いっきり蹴飛ばして閉めた。  ガチャ―ンとぶつかる音がして、小さく舌打ちとなにかを毒づく声がした。続いてまた、乱暴に階段を上る音が聞こえ、遠くのどこかでドアがばたんと閉まる気配がし、…静かになった。 「なんだ、あいつ…」  純はずっと呆然とそれを聞いていた。 「おミズだったら確実に殴り合いだな」  振り返ると、タロとハナはしっぽを丸めて二匹で寄り添っていた。純が近寄るとクゥーンと甘えた声で擦り寄ってくる。よっぽど怖かったらしい。2匹を撫でてやっていると、汀氏の車が入ってくるのが見えた。そう言えば車がなかった。やはり買い物にいっていたらしい。すぐに二人で大きな荷物を抱えて降りてくる 「ごめんごめん。ちょっとてまどっちゃってね」 「あ、いえ。すごい荷物。手伝いますよ」  純は、夏帆の荷物を受け取った。 「ありがとう。親切ね峰岡くん」 「外で待ってたの?乗(じょう)がいたろ」 「あの、すっげー不機嫌なやつ?」 「不機嫌?愛想はないけど不機嫌ってほどじゃ…」  汀氏は時計を見た 「ああ、ごめん。まだ午前中だったか」 「乗くん、人格変わっちゃうからね、午前中は」 「午前中?」 「あいつ、すごい低血圧でさ、午前中はゾンビ化してるんだ。あれ、鍵空いてる」 「そいつが開けて、文句だけ言って、いなくなったから。鍵は閉めた音しなかったな」  玄関を入るとシャツが脱ぎ捨ててあって、飾ってあったアンティークっぽい花瓶がたおれて割れていた。さっきのガチャ―ンはどうやらこれだったようだ。 「あら、これ気に入ってたのに」  夏帆はちょっと悲しそうな顔をした。汀氏は 「また、買ってあげるよ」  と言ってにっこりした。  荷物をリビングに運ぶと、夏帆がお茶を入れてきてくれた。ダージリンティーの良い香が広がる。 「で、あれ、誰なんです?」 「あれって?ああ乗?おれの弟だよ」 「…似てねえ…」 「そうかな?正常な彼を見ればきっと似てると思うよ。なんだか大学一ヶ月で辞めちゃってね。一年くらいどこかフラフラしてたと思ったら、いきなり転がり込んできたんだよ」 「せっかく東大はいったのにねえ」  夏帆が続ける 「東大やめちゃったんですか!?」 「それも理3よ。お医者さんになるって言ってたのにね」 「ひえ〜」  東大理3と言えば、言うまでもなく大学の最高峰。入りたくて何浪も重ねる受験生も稀ではない。それを一ヶ月でやめてしまうなんて、なんてもったいない。 「それって…」 「ああ、変わり者だよね。まあ小さい頃からそんなところがあったからな、あいつは。合格した段階で彼にとってはもう東大はいらなくなってしまったのかも知れないなあ」 「今は?」 「家でごろごろしてるよ。暑いしね。まあ秋にでもなったら仕事を手伝わせようかと思ってるんだ」 「ええっ」  あんなのが、秋から来るのかと思うと頭が痛い。 「大丈夫だよ、正常な彼は冷静だから」 「…それ、見ないと信じらんない」 「気持ちはわかるわ」  夏帆が慰めるように言った。 「私も最初びっくりしたもの」 「でも、あいつ、夏帆にはまだ抑えてると思うよ」 「…って事は抑えが効くってこと?」 「そうなるかな」 「そうだよ」  もう2度とあんな奴と関わりたくない、と思いながらも心のどこかで、きっとそうは行かないような気がしている純だった。

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 淳の母は、玄関に立っている淳を見ると 「あら」  とだけ言った。淳が来る事は言ってなかったのだが、口調は冷静。  淳はなんと言ったら良いか分からず 「久しぶり」  と答えた。我ながらすごく間が抜けていると思った。 「元気なの?」 「まあ」 「そう」  玄関での会話はそれだけだった。尚はすぐ自分の部屋に向かい、淳もそれを追った。  昔は淳と尚が使っていた部屋を、今は尚が一人で使っている。 「荷物これだけ?」 「うん」  荷物は以外に少なく、大き目のバッグ二つ。これならわざわざ送らなくても、手でもって行ける。  もっとも淳がΦに入ったときも、家を出たときも、ほとんど手ぶらの状態だったからそれよりマシだ。  久しぶりの我が家に淳は座り込んであたりを見回していた。そう言えば畳の感触も久しぶりだ。 「部屋、こんなに狭かったっけ?」 「自分がでかくなったんだろ」 「そっか」  昨年の夏一ヶ月くらいで、淳はいきなり身長が10cm伸びた。急に視界が広がったのは、まだしも、突然長くなった手足はしばらく使い勝手が悪かったのを覚えている。尚もその頃身長が伸びたと言う。  ふと気がつくと、母親が入り口に立って、じっとこっちを見ている。目に涙が溜まっている。淳と視線が合うと、つかつか歩み寄ってくる。ヤバイと思う間もなく 「一発殴らせなさい」  という言葉といっしょに平手打ちが飛んで来た。続いてもう一発反対側に 「一発って言ったじゃねーかよ!」  淳が文句を言うと 「今のは、お父さんの分」  もう一発殴って 「晶の分」  最後に一発。 「渚の分」  そして、尚のほうを向くと 「尚、あんたも殴ってやりなさい」  と言う。 「おれはいいって」 「何言ってるの。あなたが一番気にしてたの知ってるのよ」 そして、淳の方に向き直り、座ったままの淳をいきなりぎゅっと抱きしめた。 「まったく、ほんとうに、このばか息子は…。わかってるの?心配してたのよ。みんな心配してたのよ。あなたの思ってる100倍もお父さんとお母さんは、あなたの事考えてるのよ」 「うん…」 「知らないうちにこんなに大きくなっちゃって…成長するの見られなかったじゃないの。部活の応援に行ったり、運動会見に行ったり、ガールフレンドのことで心配したりとか、そういうの、みんなさせて貰えなかったのよ、わかってんの、淳?」 「うん…」 「ちっちゃい頃から、ほんっとに、心配ばっかりかけて。最低の子供だわ、あなたって子は」 「だよな…」 「おまけに尚まで連れてっちゃうし」 「それはおれのせいじゃ…」  言いかける淳を母親は遮る。 「いいえ、淳のせいよ。こうなったら、あなたが全部しょいこみなさい。尚までお母さんのこと裏切ると思ったら、お母さんつらすぎるわよ」 「…わかった」 そこで、やっと母親は抱擁を解いた。淳の肩に手を置いて目をのぞき込む 「もう、帰ってきなさいとは言わないわ。一度親子の縁切ったと思うことにするから。勘当してあげる」 「…」 「でも、どうしようもなくなったら、また復縁してあげる」 「…うん…」 「帰ってくるところがあること忘れないで」 「うん……」

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「参ったな」  帰りの電車の中で淳がつぶやいた 「赤ん坊の時以来だぜ、あんなん」  母親から抱きしめられた事を言っているらしい。 小さい時から淳は甘えない子だった。幼稚園くらいの時、夏祭りに新しいげたをはいて出かけて、足の皮膚が鼻緒に負けてしまった事があった。尚が先に痛いといい始めて母におんぶしてしまい、晶は生まれたばかりの渚を抱っこしていたので、淳は意地を張って歩きつづけ、家に着く頃には両足の親指と人差し指の間がベロっと大きく剥けてしまっていた。母親は、まったく意地っ張りで可愛げがないと呆れていたが、淳にしてみれば痛いと言ってもどうしようもないから言わなかっただけだ。   「あれはねーよな、卑怯だよなあいつ。もっとめちゃくちゃ怒鳴られるかと思ってたのに、あれじゃ反抗できねーじゃん」 「いい子になるんだ」 「なれねーよ、今さら。なれねーけど、参ったよなあ。母親ってあんなんなんだ」

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 その頃水木家の夕食の食卓では、渚が『大好きな淳お兄ちゃん』に会えなかったと言ってむくれていた。小学校4年生の彼女はもう夏休みに入っていたが、友達とたまたま出かけてて一日中家を空けていたのだ。 「しょうがないでしょ、連絡とれなかったんだから、いつまでもぶつぶつ言わないの」  夫の晃司をつれて夕飯食べにきていた晶がたしなめる。晶は結婚してからも近くに住んでいて、しょっちゅう夕飯を食べに来る。まだ子供もいないし、共稼ぎで出版社に勤めていて、下手したら公務員の晃司より収入がある。ちなみに今夜は母の得意料理の肉じゃがだ。 「淳、どうだった?」 「どうって?」 「どんな感じだった?」 「そうねえ…。お父さんの若い頃そっくりのいい男になってたわね」 「いや…そういうことじゃなくて」 「顔は尚とやっぱり似てたわ。背格好も同じくらい。ちょっと淳の方が細いかな?」 「だから…外見から離れてよ、お母さん。中身は?なにか悩んでたりしてそうじゃなかった?」 「とりあえず、一遍親子の縁切ったから」 「はあ?」 「よその子だから、よその子の悩みなんてわからないわよ」  母親はそう言って、しれっとした顔で食事を進めている。  晶はそんな母親を見て、負けたと思った。なんだかんだ言って、淳の事すごく信じてるんだ、この人。母は強い 母親はそんな晶の気持ちを知ってか知らずか 「そうだわ!」  と、何かを思い出したように晃司の方に向き直る 「淳も尚もよその子になっちゃったから、うちは男の子がいなくなっちゃったのよねえ」 「そうですね、淋しいですね」  晃司は愛想よく相槌を打つ。お義母さんの肉じゃがは本当においしいよなとか関係ないことを考えている。 「晃司さん、婿入りしない?次男だし」 「え?」 「だめよっ!」  晃司より先に晶が答える。 「だめ?じゃせめて同居だけ」 「僕はべつに構いませんが…」  言って、晶の方をちらと見る 「なに言ってるの。晃司さんのお母さんが遊びに来にくくなっちゃうでしょ!」 「藤瀬さんなら私も知り合いだし、大丈夫よ」  晃司と晶は中学時代の同級生で、その頃からの長い付き合いだ。父親は晃司が高校時代に亡くなり、兄も結婚して遠くに住んでいるので、晃司の母親は今一人で暮らしている。中学時代いっしょに役員をやった関係で母親同士も知り合いだ。 「お母さんたら呑気なんだから」  晶は冗談じゃないと思っていた。夜型の今の生活で親と同居なんて不可能だ。きっとお互いイライラすることばかりに違いない。 「そお?つまんないわねー」 「おかあさん、私がいるから」  渚がにこにこしながら言った。 「お婿さん連れてきてあげる」 「渚はいい子ね」 「私、淳お兄ちゃんみたいな人探すから」 「そお?期待して待ってるわね」
  
 

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