1.6. And She Loves Him. 〜part5
その日の午後、いつまでたっても起きて来ない乗の部屋を、夏帆がノックした。返事はない。もう一度ノックして、
「乗くん」
と呼んでみる。中で人が動く気配がした。
「乗くん、今日はお休みするの?」
また呼びかけると、ガサガサという音の後、ドタという大きな音がし、
「いてぇ」
という小さな声がした
「乗くん!大丈夫?」
思わずドアを開けて中を覗く。乗がベッドのそばの床に座り込み不機嫌そうな顔でこっちを見ている。落ちたらしい。
「あ、ごめんなさいね、勝手に開けて」
乗はだるそうにぐしゃぐしゃと髪をかきあげ、めんどくさそうに
「別に」
と言う
「お休みするの?電話しておいてあげましょうか?」
「休み?何時?」
時計に目をやるが焦点が合わずよく読めない。
「えっと?」
「2時よ」
「2時。2時ね。」
2時という言葉を反芻し、意味を考えようと必死に頭を動かそうとする。でもよくわからない。
「あーっもう、くそっ」
自分で自分に毒付いて頭を左右に振る。
「休んだら?」
「いや。行く」
倒れようとする体を床からひきはがすように持ち上げて、ゆらっと立ち上がる。かすれた声で
「夏帆さん、ありがとう。シャワー浴びるから」
「本当に大丈夫?」
乗はそれには答えずバスルームに消えて行った。
「朝ごはん用意しておくからね」
バスルームに呼びかける。返事はない。夏帆は本当に大丈夫か心配しながら乗のブランチの支度にとりかかった。
カリカリのベーコンにふわふわのスクランブルドエッグ。小さめのパンケーキが数枚に、金色の溶かしバターとラズベリーソースとクロデットクリームを添えて。野菜をたくさんせんぎりにして、軽く炒めてブイヨンを注ぎ、ジュリエンヌスープを作る。それにカテッジチーズをかけたフルーツサラダを添える。
季節のフルーツを盛り付けた皿を並べていると、乗が下りてきた。
「おはよう。食べられる?」
乗はテーブルの上を見回して
「悪い夏帆さん、食欲わかない。コーヒーだけもらう」
「あら」
夏帆は心底がっかりした顔をした。
「だから、ごめんって」
「わかったわ。しょうがないわよね」
にっこりしてコーヒーを入れ始める。
シャワーは浴びたものの、頭は一向にすっきりしない。ぼーっとしてコーヒーをいれる夏帆の後姿を見ながら、昨日の事を思い出そうとしてみる。ところどころ記憶が戻るもののどうもあいまいだ。覚えているのは誰かが自分のことを好きで、そのために淳と由利香が『好みのタイプ』ってやつを引き出そうとしていたってこと。でもそいつは、自分がそのタイプと一致していなかったらどうするつもりなんだろう。自分が変わろうとするのだろうか?そこまでして誰かに好きになって欲しいと思うものなんだろうか。だって相手に合わせた自分というのは本来の自分じゃなくて。
と考えている乗の視界の中で、夏帆の体がぐらりと揺れ、その場にしゃがみこむように崩れた。
「夏帆さん!」
一気に目が覚めた。
駆け寄って見ると、別に気を失った様子ではない
「大丈夫?」
抱き起こすと、額に汗をうっすらかきながらにっこりし
「う〜ん、陣痛きちゃったかな?、いたた…」
と言った
「え?だって予定日まだだよな」
「あと10日くらいだけど、朝からちょっと痛いなとは思ってたの。ちょっと今急激に痛みが」
「兄貴どこ。電話してくる」
「Φ」
夏帆を壁に寄りかからせるように座らせて、腰のうしろにクッションを押し込んでおいて、電話に走る。
イライラしながら待つが、こういう時に限って出るのが遅い。やっと誰かが受話器を取った、と同時に叫んでいた
「汀ですけど、兄貴は!?」
「なんだ、どうした、今日休みか?」
電話の向こうから、有矢氏ののんびりした声が聞こえる
「だから、兄貴いますか?」
「出張したぞ。帰るの夕方だ、急用か?」
「こんな時出張かよ!」
そのまま電話を投げつけるように切って、夏帆のところに戻りながら頭の中で何が必要か考える
「夏帆さん、おれ病院連れてくよ。行きつけの病院どこ?」
夏帆に言いながら戻ると…さっき座らせたところに夏帆がいない。見回すと部屋の隅でうずくまっている
「何やってんの、動いちゃ駄目だろうが」
「出かけ…るなら…元栓とか…閉め…なきゃって…」
と夏帆は苦しそうに言葉を搾り出している。ふと…足元を見ると…水が溜まっている。
「夏帆さん、やばいよ、これ」
「破水…しちゃったみたい…」
「だから、動くから!」
「ごめんね」
むりやり笑顔を作る。
「道具…一式入り口に用意してあるから…それ持って」
何をどうやって運んだのか覚えていない。両手で夏帆を抱きかかえていたのに、どうやってもう一つ荷物を持って、車のドアを開けたりしたのか、後になって考えてもわからない。最悪の場合自分で取り上げるしかないなんて、悲壮な決意をして手順を考えながら車を走らせたのだけは覚えている。
とにかく、夏帆を行きつけの産婦人科に運び、夏帆が分娩室に入るまで無我夢中で、気がつくと分娩室の前の廊下のソファでぐったりとしていた。さっき医者にあと少し遅かったら危なかったと言われた。ドラマとかでは良くあるけれど、本当にそんな事があるんだなと思う。
ふと気が付くと、他の妊婦さんたちの家族だろうか。数人の目がじっとこっちを見ている。その中の一人が話し掛けてきた
「初めてのお子さんですか?」
「え?あ、いやおれの子じゃないんで」
「え?」
へんな言い方だったかなと気づき、表現を変える
「兄貴の子なんです」
「え?」
まだ変か。どうもさっき一気に強引に目が覚めたせいで、今になって頭がまたぼーっとしてきたみたいだ
「ええと、兄貴と彼女が結婚してて、オレはそこに居候していて、兄貴がちょうど不在だったんでオレが連れてきたんです。」
「ああ、なるほど」
相手はそれで納得したみたいだった。
「なんか随分必死みたいだったんで、てっきり、あなたのお子さんかと思いましたよ。それにしてはお若いなと。」
そんなに必死の形相だったかなとちょっと反省する。
2時間ほど待っただろうか。分娩室のドアが開き、看護婦さんが乗を呼んだ
「汀さんのご家族?」
「一応。」
看護婦さんはにっこりして乗に告げる
「産まれましたよ。女の子です。ご覧になりますか?」
ちょっと戸惑いながらも、分娩室に入る。夏帆が疲れた顔で、でも幸せそうにこっちを見て
「乗くんありがとうね」
と言った。看護婦さんが赤ちゃんを抱いて
「お抱きになりますか?」
と聞いてきて、渡されるのをまるで夢の中の出来事のように感じる。当然そんなもの持った事もなく、必要以上に力が入り、腕が固定したまま動かす事もできない。落としたら…と思うと怖いったらないし
「すいません、これ受け取ってください」
となんだか妙な言い回しをしてしまい、看護婦さんに笑われる
「乗くんの姪っ子よ。可愛がってあげてね。」
「夏帆さん、ごめん。オレが早く起きてれば、もっと早く病院行けたよな」
「違うわよ。乗くんがいたから、病院につれてきてもらえたんじゃない?ありがとう。それから、ごめんね、まだ眠かったのに」
言われて、訳の分からない感情がこみ上げてきた。目頭が熱い。やばいと思って
「外にいるから」
と言って分娩室を出た。こんなんで感動するなんてガラじゃないし、泣くなんて冗談じゃないと頭では思っているのだけど、理性とは関係なく涙がつっと落ちるのが自分で分かった。
『やんなるよな、なんだよコレ』
と呟いて、ソファに腰を下ろし、両手で顔を覆った。
しばらくそうしていると、また分娩室のドアが開いた。目を上げると、出産後の処置を終え、夏帆が赤ちゃんと一緒にストレッチャ―で病室に運ばれて行くところだった。
「ご家族の方もいらして下さい」
といわれ、荷物を持って後に着いていく。病室は個室で、広くはないが清潔で落ち着ける感じだった。
赤ちゃんはしばらく夏帆と部屋で過ごした後、新生児室へ運ばれていった。
夏帆は乗の顔を見て
「乗くん、目赤いよ。そんなに喜んでくれた?」
「何言ってんの。でも、ま、良かったよな、無事産まれて。」
軽く流して目をそらす。ああ今日はΦに行けなかったな、みんな真面目にやってるかなとわざと違う事を考える。
そこへ、息せき切って汀氏が到着した。有矢氏に、電話をして来た乗の様子が変だったと聞いて、ピンと来て病院に直行したと言うわけだ。
「ごめんな、夏帆、こんな時に一人で置いておいて」
「一人じゃないわよ、乗くんがいてくれたから、大丈夫」
「よりによって出張だなんてついていなかったよ。立ち会おうと思っていたのに。」
「いいわよ。可愛い女の子よ。目元があなたにそっくり」
「そうか?ありがとう、夏帆。」
「ううん。あなたのおかげよ」
バカっプルモードに入りかけた二人に乗が声をかける
「盛り上がってるところ悪いけど、オレ帰るよ。いるものあれば明日持ってくるけど。」
「ああ、いたのか、乗」
いたのかじゃないよな。
「いいよ、明日は仕事休んでおれが付いてるから」
仕事休んでって…いいのか?
「あそ。じゃ帰る。」
「おまえ明日ちゃんと一人で起きろよ」
起きる事は起きると思う。何時になるかは分からないけど。
車を走らせ、家に戻ると灯りがついていた。玄関の鍵も開きっぱなしだ。そう言えば鍵を閉めた覚えがない。まずったなと思いながらリビングに向かうと、淳がいた。
「おかえり。お疲れ。」
「なんでオマエがいるんだ」
「いや、有矢さんに乗の様子がおかしいから見て来いって言われてさ、来てみたら鍵空いてんじゃん。ぶっそうだから、有矢さんに電話入れて、留守番してた。なんかすっげー慌てて家出たみてえだけど、もしかして夏帆さん赤ん坊産まれた?」
「ご名答。疲れた」
「産婦人科なんて足踏み入れるだけでかなり精神力消耗するよな」
「なんでオマエが行った事あるんだ?何しに行った?」
「いや…昔ちょっと、つきそいで」
淳は言いながら、乗にコーヒーを差し出す
「入れかけだったから入れといた。時間たってるから味落ちてると思うけど」
「ああ、悪ィ。」
と受け取って一口飲んで
「生き返った。淳、こういうことできるんだ」
「コーヒーくらい入れられるよ。めーこさんに教わったから緑茶と紅茶も入れられるようになった。」
テーブルには夏帆が用意してくれた朝食兼昼食のブランチが冷えてそのまま残っている。
「乗こーゆーの食ってんの?」
「らしいな。いつも半分寝ているからあまり意識していないけど。」
「夏帆さん入院しちまって、どうすんだ食事?」
「どうにかなるだろ。」
「おまえ定食とか食えねーだろ。まあ最悪、奈緒さんがなんかつくってくれるかもな。それと起きられるのか、一人で」
「どうにかなるだろ」
乗はまた同じ答えを返した。
「スペアキー貸せよ。誰か起こしに来てやるから。」
「いいよ」
「貸せって。おまえに休まれると、みんなペース狂うんだよ。やる気出ねーから、ちゃんと来てくれって」
「オレ、機嫌悪ィぞ、起き抜け、滅茶苦茶に」
「みんな知ってんからいいよ。貸せって」
乗はため息をつき、どうにも引きそうにない淳に渋々キーを渡す。
「起こしに来るんなら、オマエかミネが来いよ。オレだって誰にでも寝起きの不機嫌な顔見られて平気なわけじゃねえ」
「おっけー、おれかミネね ♪」
と請け負ったくせに…。
****************
次の日の12時過ぎ、淳が乗の部屋をとりあえずノックする
「起こしにきたぜっ!ありがたく思え」
と言うのと同時に部屋のドアを開け、づかづかとベッドに近づいて、布団をはぐ
「起きろ〜つ!」
乗をこんな風に起こそうとするのは多分淳くらいだ
「てっめーええっ!」
乗が寝転がったまますごい目つきで淳をにらむ
「んだよ、その起こし方」
「じゃ、やさしくおはようのキスとかしてやろうか?オヒメサマ」
それは、さぞぱっちり目が覚める事だろう。
「いらねえ。ったく、これから毎日これかよ」
のろのろと上体を起こす。そのまま両手で頭を抱え込みしばらく動けない。
乗が来ないとやる気が出ないから起こしに来ると言ったくせにこれか。
「シャワー浴びていくから」
「朝浴びてんだ。わあ乗くんたらおっしゃれー」
「目ぇ覚めねぇんだよ。ぶっ殺されてぇか」
「されたくねーよ。んじゃ、おれ、下行ってるね」
やたら(乗にとっての)朝からテンションが高い淳にイラつきながらシャワーを浴びる。少しだけ体も頭も目覚めた状態で、階下に下り、リビングダイニングのテーブルにつき、ぼーっとしたままコーヒーを飲んでバタートーストを一口かじる。サラダを口に運んだところで気が付いた。なんでここに食事が揃ってるんだ?夏帆がいないのに。
目の前には、キャベツとソーセージのスープ、ほうれんそうのココット、つぶしたゆで卵が入ったポテトサラダえをサラダ菜の上に盛り付け、薄切りの食パンをカリっと焼き上げてたっぷりバターを塗ったバタートーストに、メープルシロップとクリームチーズが添えて置いてある。よく夏帆が作ってくれたメニューではあるが
「淳、これ、誰が作ったんだ?まさかオマエじゃねえよな」
「え?おれに作って欲しかった?」
「ハイハイ私トースト焼いた!」
由利香が元気に手を上げる
「ユカまで来たのかよ。ったく、朝飯なんていらねえって言ってんのに」
「ふつーに座ってふつーに食ってんじゃん。へえええっ、おれ、乗がなんか食ってんの初めて見た」
「私も私も!」
二人でテーブルの反対側にすわり、目を輝かせて乗をじーっと見つめる
「ね、ねっ美味しい?」
「うまいとかなんとか、よくわからねえ。夏帆さんのと同じ味だ」
「コーヒーのお代わりいる?」
温がコーヒーポットを持って現れた。どこから調達したのかヒラヒラの白いエプロンを着ている。乗を見て
「た…た…食べてるっ!」
と言ったきり絶句して、ぽろぽろ涙をこぼした。
「なんで、紫樫がいるんだ?で、なんで泣くんだ?」
「温ちゃんが作ってくれたんだよ、ねー温ちゃん」
と、由利香
「なんで?」
「温ちゃん料理得意だからさ」
これは嘘。実はあれから淳は病院に行って、夏帆に乗仕様のブランチのメニューをいくつか聞いてきた。Φに戻って温に話し、料理得意じゃないと二の足を踏む温に
「朝ご飯作ってあげたいっていってたじゃん。チャンスチャンス」
と持ちかけて、ナオの台所かりて、特訓した。失敗したのを昨夜の夕飯、今朝の朝食と片付けたから、淳も由利香も今日は体がほうれん草と卵とキャベツとソーセージでできている気がしている。
「へえ?」
なんだか納得はできないが、幸か不幸か、今頭がまだよく働かない。そんなもんかなと思いながらスープを口に運ぶ。それをじーっと見つめていた温は、顔を覆ってダダダっと部屋を走り出していった。
「なんだあれ?なんか変だな紫樫」
「感激したんじゃねーの、乗がもの食ってんの見て」
「そうそう」
「泣くか、普通?」
「いやーおれもカンゲキの余り涙が…」
「うそつけよ」
乗が食事を済ませるのを待って、後片付けを終わらせてから、午後の練習のためΦに向かう
「みんな歩いてきたんだろ、おれの車で行くか?」
「あ、おれ、ちょっと用事が…買い物あって、ユカもだよなっ!」
「え?うん、そ…そうっ!私も買い物買い物」
「温ちゃん送ってもらいなねっ!んじゃっ!」
「あ、ちょっと…おミズ、ユカ…」
二人は一瞬で姿を消した。…と思わせて、物陰に隠れて様子を見る。
「なんか、変だな」
乗は首を傾げながら、車に向かいながら温に
「じゃ、紫樫乗ってく?」
「ああああ、あ、はいっ!」
「暑い?真っ赤だけど」
「あ?いえ、大丈夫です」
「ふうん。なんで後ろ乗るの。助手席乗れば?普通そこ乗るだろ。」
「え?え、でもそこはほら、彼女とかのためにとっておかないと」
「いないから、いいよ。早く乗って。昼飯食わないで来たんだろ。食堂閉まるよ」
乗の車が出て行くのを淳と由利香は物陰で見送った。
「これで温ちゃんの夢はふたつ叶ったって事だよな。朝食作りと助手席に座るの。」
「う〜ん、幸せそうだなあ、温ちゃんいいなあ」
「うらやましいなら、ユカも誰か好きになりゃいいじゃん」
「考えてみるね」
気が付くと1時を回っている
「あー腹減った。どっかで昼飯食ってくかな」
「そーしよ、そーしよ。ご飯もの食べたい!」
「だよなー昨日からまともなもの食ってねーもんな」
温の作ったものはまともじゃないと言うのか。自分たちだってまともな料理は作れないのに、ものすごく失礼なことを言いながら二人は町のほうへ歩いて行った