2.6. childish 〜part2
「ゆきちゃん、また倒れちゃったの?」
木実が息せき切って、小雪の部屋に駆け込んで来た。
小雪はベッドに横になっていたが、木実の姿を見ると、上体を起こそうとした。
「あ、いいから寝てなよ。どうしたの?ご飯食べなかったんでしょ。」
黙って頷く小雪に
「だめだよ、ちゃんと、せめて一日一回は何か食べないと。すぐ忘れちゃうんだから。大丈夫?ふらふらする?」
小雪は首を2,3回振り、片腕を差し出した。白い細い腕に注射の跡。
「栄養剤打ってもらったの?でも、栄養は口から取らないとダメだよ。人間として体が機能しなくなっちゃうよ。ゆきちゃんは機械じゃなくて、ちゃんと一人の人間なんだから、最低限度の生活はしないと」
「おいしくない」
「そんな事言ったって。じゃ、何が食べたい?買って来てあげようか?」
「いらない」
そのまま背中を向けてしまう。
「困っちゃうなあ…」
ここ数日忙しくて、ずっと小雪に会えなかった。どうしているか気にはなっていたんだけれど。
そう言えば、今までも何度かこんな事があったような気がする。
その時も、何日か小雪に会えなくて、そのあと小雪が倒れて…。
昔はいっしょにいられる時間も長かったけど、最近それぞれ忙しくて顔を合わせない日が何日か続くことがたまにある。
でも、なんだか、何かがおかしい気がする。
小雪は自分の前では、量は多くないけれどそれなりに食事をしている。それも別に、いやいや食べている風でもない。むしろ、五感を研ぎ澄ますかのように、神経を集中させ、食物を慈しんで楽しみながら取り込んでいるような感じすらするのに。
「もしかして、一人でご飯食べるのキライなの?」
返事はない。
「じゃあ、僕が誰かに頼んでおいてあげようか?僕が居ない時は誰かいっしょに食べてくれるように」
また返事はない。
「ゆきちゃん…、寝ちゃった?」
返事のかわりに、ゆっくりと寝返りを打ち、体をこっちに向ける。
小声で、でも木実の目をしっかり見据えながら言う。
「ナッツと」
「え?」
「ナッツと食べたい」
「ゆきちゃん。…そうか、そうだよね。ごめんね、しばらく会えなくて。でも、これからも、多分会えない時があるよ。その度に倒れちゃったら、心配で、仕事に集中できないよ。僕のためにご飯食べて?ね?」
木実の言葉を聞いていた小雪の顔に、微笑が浮かび、
「がんばってみる」
と返事が返ってきた。
「良かった。じゃ、僕何か今から作ってもらって来るから、いっしょにご飯食べよう。」
小雪が頷くのを確認して、木実は急いで部屋を出た。
小雪が自分をそんな風に頼りにしてくれるのは、嬉しい。でも、いつまでもこんな暮らしが続くわけではない。その時、自分は小雪はどうするのだろう。…でも、今はとにかく、この時を大切にしようと思う。
「おはよ、翼、今日も悪ガキか?」
次の日、やってきた翼に、淳のほうから声をかけると、翼はぎょっとした顔をした。昨日は結局、翼だけまだ跳べなかった。
「な…なんだよ水木淳。よゆーだな」
「んっふっふー。おれは、オトナだもんね」
「頭、よーちえんじなみのくせに」
「ああああっ、すっすみませんっ!」
若い母親が慌てて駆け寄ってきて、翼の頭をポカっと叩く。
「この子昨日もいろいろ失礼な事をっ!謝んなさいっ翼っ!」
「やだねー。おれワルくねーもん」
『…確かに、昔の自分を見てるみてえだ…』
母親と翼のやり取りを見ているうちに何だか可笑しくなってきた。
「な…っ、なに笑ってんだよっ」
「いやあ、なんかおまえ他人と思えねえ」
「じゃ、おれはおまえのカクシゴか?」
「この子はっ!どこでそんな言葉覚えてきたのっ!」
もう一度、ポカっと殴られる。
「おまえ何才だ翼」
「5才」
「う〜ん、ちょっとそれは設定的にムリ目かもな」
「おミズ、子供相手にどういう会話してんだよ」
はらはらしながら傍で聞いていた健範が口を挟む。
「だってこいつ自分が子供だと思ってねえもん。な、翼。おまえ、おれと同レベルだと思ってんだろ」
「あったりまえじゃん!」
「じゃ、おれが出来る事はできねえと恥ずかしいよな」
「うん、そうだな」
「じゃ、跳べるよな、跳び箱」
「うっ…」
「はいっ、がんばろーっ!」
「くっそぉ、とんでやるっ!」
口惜しそうに拳を握り締めて、淳を睨みつけ、たたたと桃果の方に走って行った。
「やっぱ、似てるな、あいつ、おまえと」
健範はその後姿を見ながら、呆れた声を出す。
「扱いうまいじゃん」
「要は子供だと思わなきゃいいんだ。だろ?」
「なるほどね」
健範は、感心するとも呆れるともつかないあいまいな顔になる。
「ちょっと水木くん、ヘンな事吹き込んだでしょ!」
桃果に呼ばれ、そっちへ行くと翼が、今日は跳び箱の日じゃないのに、跳び箱をやらせてくれと、だだをこねている。
「やらしてやれば。せっかくやる気になったんだから」
「そんな事言っても、メニューこなせないわよ」
「いーじゃん。なー翼。」
「せんせー、やらせてよー。」
「しょうがないわねえ。じゃちょっとだけ。水木くんセットしてあげて。」
「手伝え、翼。自分がやりてぇんだから」
「わかった。」
翼に跳び箱を運ばせ、自分はマットと踏み切り板を運ぶ。
セットが終わると、翼は踏み切り板から数メートル離れたところに緊張した様子で立ち、跳び箱を見据えた。
「頑張れよ」
後ろから両肩をポンポンと叩く。
「お…おー」
たたたと走り出すが、やはり直前で止まってしまう。
いつもだったらここでやめてしまうのだが、口惜しそうな顔で戻って来たかと思うと、再度挑戦する。
今度は、ぽてんと跳び箱の上にまたがってしまう。
「翼、何が悪いと思う?」
「止まっちゃうとこ。あと、手つくとこがだめ」
「違うよ、そんなんじゃねえ。おまえ跳ぶ気ねえんだ」
「あるよっ!」
「ねえな。」
「くっそお」
唇を噛みしめてもう一度挑戦する。体がふわっと浮き、跳び箱を越えた…と思ったら、マットに思いっきり顔から突っ込んだ。
「跳べたじゃん、翼」
「うー…これ、とべたことになるのかあ」
「少なくても、進歩はしてるぞ」
「もういっぺんやる」
いつの間にか、ひよこ組のみんなが翼の動向を固唾を呑んで見守っていた。
「あーなんで、どこでもスタンドプレーするかなあ、おミズ」
今日の自分達のメニュー『ボール遊び』にいつまで経っても取り組もうとしない子供たちをもてあまし、健範も諦めて翼の様子を見守ることにした。
「しょうがないよ。おミズは団体行動苦手だから」
歴史は淳にかなり寛容だ。
「こういう所にいて、団体行動苦手って言ってもな」
「おミズは、それでも、余りあるほど力があるって事でしょ、つまり。それでもAクラスに居るって事は」
馨は、やはりなんだかんだ言って実力的にはトップの淳には一目置いている。
「かなり偏りあるけどね。」
「なんでも出来てもつまんないじゃない。でもおミズ本当に苦手なのは水泳くらいでしょ。それも短距離」
「器械体操、フィギュアスケート、格闘技、重量挙げ」
「格闘技できるよ、おミズ。体重別だもん。あれだけスピードあったら」
「あいつ、ルール違反しそうだろ」
「それは言えるか」
その時歓声が上がった。翼が頬を紅潮させて、マットの上に立っている。
「とべたあああっ。とべたぞっ!水木淳っ!」
翼が走ってきて、淳に抱きついた。
「えらいえらい」
頭を撫でてやると、
「いっとくけど、レイなんかいわねえからな!」
と強がりを言いながら、大声でわあわあと泣く。よっぽど嬉しかったらしい。
「分かってるよそんなん。おれのお陰じゃねえもん」
「あったりまえだぁ!」
翼はぼろぼろと涙を流しながら、しばらく淳にしがみついていた。
「なあ、初めて跳び箱跳べた時の事とか覚えてる?」
昼食時、淳がそんな話題を振ると、みんなう〜んと考え込む。
「おれ、全然覚えてねえんだ。感動すんのかなあ」
「最初っから跳べる奴とかいるもんな。おまえその口だろ」
確かに、高さとかスピードとかに恐怖心が欠落している淳はそれもありうる。
「かなあ」
「それよりおミズは、最近似たような体験してるだろ。自転車」
純が笑いながら言う。あの時は大変で、かなり心配もしたけれど、今となってはあの数日は笑い話だ。
まあ、16まで自転車乗れなかったって事自体が大笑いだけど。
「ああ、あんなもんか。血と汗と涙の結晶…。」
「ズタボロだったよな」
「あそこまで怪我しないよな、普通」
「いや、普通はもっとガキの頃乗れるようになってるから、それほどケガは」
「う…うるせーな」
「私一応覚えてるよ。跳び箱」
「うっそー。ユカすっげーちっちゃい時だろ」
「うん。でも覚えてる。跳べたっていうか…ここに手ついてポンって跳ねるんだよって言われて、やったら出来て、わあすごいって思った。じゃあもっと勢いつけたらもっと跳べるんだなって思って、走ったらタイミング合わなくて思いっきり崩した。口惜しくってその日はずっと跳び箱やってた」
「へええ…」
「逆上がりの時も覚えてるよ。」
「ユカ、あの時、泣きながらやっぱり一日鉄棒と格闘してたよね。手の皮ほとんどむけちゃってさ、みんながやめろっていうのに、できるまで止めなかったよね。」
武が思い出すように言った。
「うん、タケちゃんだけ最後まで付き合ってくれた。でも、あれは痛かったー」
由利香は思わず自分の手のひらをじっと見つめながら言った。
「ふうん」
「おミズが複雑な顔してる」
純は今度は笑いをこらえながら言い、淳にだけ聞こえるような小声で付け加える
「おまえ今、タケに嫉妬したろ」
「しっ…してねーよ。するわけねえだろ、そんなん」
「ちっちゃいユカを見たかったとか思ってるくせに」
「思ってねえっ!」
いきなり大声を出す淳に由利香が怪訝そうな表情を向ける。
「どうしたの?」
「う゛…」
「おもしれーおミズ」
純を苦虫を噛み潰したような顔で睨みつけていると、
「おい、おまえいつまで休んでるんだ」
と後ろから声がかかった。
振り返ると、翼がえらそうにふんぞり返っている。
「いつまでって、まだ休み時間だろうが」
「おれがとびばこれんしゅーするのに、つき合わせてやるんだ、ありがたくおもえ」
「はああっ!?何言ってんの、おまえ。休み時間は休まねえと、休憩時間監察委員会に捕まって100回鞭叩きの刑に…」
「おミズっ!」
いつものように適当な設定で煙に巻こうとする淳に、周りから一斉に抗議の声が上がる。
「もうっ!淳、ダメだよ、小さい子騙そうとしちゃ」
由利香が
「ねーっ」
と翼ににっこり笑いかけると、翼は
「おねーちゃん、こいつこうやっておどかすんだぁ」
と泣きつく真似をする。
「おまえ…ほーんといい性格だよな…」
「かわいー。おねーちゃんだって!淳、練習付き合ってあげなよっ!」
「そうだよ、つき合え」
「あ、それともおねーちゃんが、手伝ってあげよっか?」
由利香が言うが、
「やだ、こいつがいい」
と淳の服を掴まえて放さない。
「わー、かわいいっ。なついてるー」
「どっこがかわいいんだよ、こんなガキ!もう、わかったから、飯食うまで待てって」
「ほんとか?わかった、じゃあっちでまってるぞ」
「はいはい。あ、ちょっと待て」
走り出そうとした、翼の首根っこを?まえる。
「なんだよっ!」
「ここで待ってろ。おまえ絶対一人であっちで練習する気だろ。危ねえから待ってろ」
ばたばた走り出そうとする翼を片手でつかまえたまま食事を済ませる。
落ち着かないながらも全部食べ終えて、
「あー喰った気しねえ。ミネ片付けといて」
「あ、私、片付けておいてあげる」
由利香が自分の分と皿を重ねながらにこにこする。
「じゃ、ユカお願い」
「うんっ ♪ 行ってらっしゃあい」
「ああ、おれの昼の睡眠時間…」
ぶつぶつ言いながらも翼に手を引っ張られて体育館へ。
翼はしばらくだまって黙々と歩いていたが、突然、淳の方を振り向き、
「なあ、あれ、おまえのオンナか?」
「はあ?」
「おまえにしちゃ、いいシュミじゃん。かわいーよな」
「生意気言うんじゃねえ。幼稚園児のクセに」
翼の頭を軽く小突く。
「いてー、ぼーりょくはんたいー」
「暴力ぅ?暴力ってのはこんなんじゃねえ。試すか?」
「い…いいよっ!」
淳の手を放して両手で頭を抱え込む。
「じょーだん、じょーだん。ほら、行くぞ」
頭を抱えている翼の片手を引き剥がし、そのままつかまえて歩き始める。
しばらく経って、こんどは翼は
「なあ、水木淳、うちの母ちゃんおまえのファンなんだよ」
と言い出した。
「なにがいいんだろうな、おまえなんか」
「ホントだよな。おれも分かんねえよ」
翼の言葉に同意すると、
「なんか、みんな母ちゃんたちがさわいでるから、もっとカッコとかつけたヤツかとおもった」
「そりゃ、期待ハズレだったな。」
「いや、こっちの方がいいとおもうぞ、おれは。母ちゃんはイメージとちがうとか、ゆうべモンクいってたけどな」
「よく言われんだよな。勝手にイメージ作られてもなあ…」
「オンナはわかんねえよな」
「それ、おまえ、早すぎるって。これからもっともっと分かんなくなるぞ」
「うえ…。やだな。」
「まあまあ、いいこともあるって。ま、母ちゃんによろしくな。イメージ違ってすいませんって謝っておいてくれ」
話しながら体育館に着くと、まだ昼休みな事もあって中はがらんとしている。
「ところで、おまえの母ちゃんはどこにいるんだ?」
「ほかの母ちゃんとか、ほかのガキらとでめし食ってる」
「…おまえ、まさか、ちゃんと断って来たよな…」
「いいじゃん、そんなん」
「知らねえぞ。まあ、いっしょに謝ってやるけどよ」
「少しはいいとこあるな、水木淳」
「何言ってんだ。おれはいいとこだらけだよ」