2.7. Woozy woods 〜part2

 
  
    
    「ユカ大丈夫っ!?」  一瞬気が緩み、平均台の上から足を滑らせて落ちた由利香に、花蘭が走り寄ってきた。 「どうしたの?今日これで5回目くらいね」 「うー。ちょっと考え事してて」  立ち上がると、膝に血が滲んでいる。 「医務室行っておいで。」 「大丈夫だよ、このくらい」 「いいから。行って少し休んできな。変だよ、ユカ。集中力ない時に、器械体操は危険すぎ」  練習用の地味な黒のレオタードの上に、ジャージを羽織らせて、由利香の手を引いて医務室へ。 「先生、ユカが疲れてるみたい。少し休ませて」 と言って、押し込むように医務室の中に入れると、花蘭は 「じゃね」 とまた体育館に戻って行った。 「珍しいね、ユカちゃん。どうしたの?」   突っ立ったままの由利香にイスに座るよう促してから、明子先生はお茶を淹れに立ち上がった。 「別に疲れてないんだけど、蘭ちゃんが…」 「そうかなあ…。なんかちょっと悩んだような顔してるぞ。そういうのユカちゃんらしくないな。元気でいてくれないとね」 「そんな顔してるのかぁ…」 「ケンカでもしたか?あれと」 「どうしてみんなそう言うかな。」  思わず不愉快そうな表情になると、明子先生は笑いながら、由利香の前に紅茶を置いた。 「ごめんごめん。なんかね、ユカちゃんたち見てると、くっついたり離れたりしてて、微笑ましいなあって思っちゃてさ。いいねえ、青春だねぇ」  そういう状況は、大抵本人達にとっては微笑ましいどころの騒ぎではない。  由利香はミルクの容器を取り上げ、ゆっくりと紅茶に注いだ。沈んでいくミルクを見ながら 「くっついた覚えないけどな」 と言う。 「そーお?じゃさ、ユカちゃんあいつが誰かと付き合ったりしても平気なんだ?」  由利香は黙ってスプーンを取り上げ、紅茶をかき回す。紅茶は透明感があるのに、ミルクを入れると不透明になってしまう。紅茶がミルク色に染められちゃうんだ、なんて事をぼんやりと考える。 「平気…かな?」 「ちゃんと付き合うって事だよ。いつもみたいに冗談とか、その場限りじゃなくて」 「だって、しょうがないよね。淳が決める事だし」 「やれやれ」  片手だけ伸ばして由利香の頭を撫でる。 「困ったお嬢さんだねえ。水木も意地っ張りだけど、ユカちゃんも相当だ」  由利香は紅茶のカップを置いて、角砂糖を一つ入れ、もう一度かき回した。一口飲んでため息をつく。やっぱりちょっと甘い方が自分にはまだ美味しく感じられる。  そんな由利香を見ながら、明子先生はいきなり 「ユカちゃんは小さい時どんな子だった?」 なんていう事を言い出した。 「どうして?」 「前に誰か好きになったりした?」 「?ずっと、みんなの事好きだったかなあ。」 「ユカちゃんはみんなに可愛がられるからね。」 「って言うよりポンと離れて小さかったから、ペットみたいな感じかな。タケちゃんは年近かったけど、すごく落ち着いてて大人だったし。」 「川上か」 「タケちゃんはさ…」  由利香は昔の事を思い出しながら、一言一言噛みしめるように話し始めた。 「小さい時は本当にお兄さんみたいな感じで、いつも一緒で、すごく優しかったんだ。悲しい事があると、泣く前に飛んで来て、『どうしたの』って聞いてくれる感じ。年が近いのはタケちゃんだけだったから、お互いになんでも色んな事話した。お嫁さんになるって言ってたと思う。私はタケちゃんのお陰で、寂しい思いをしないでいられたんだと思う。感謝してる。だけど、タケちゃんは2回変わった。ずっと優しいのには変わりないんだけど」 「どう変わったんだ?」 「1回目は6年前くらい。いつも一緒で何でも話してくれてると思ってたのに、時々黙り込むようになって。だんだん距離を置くようにしてる気がして寂しかった。でもその頃はもうABクラスの人たちとも前よりは年齢差がなくなってたし、あっちゃんとかも居たし。だけど、ずっと一緒にいるつもりでも、こうやって離れてっちゃったりするんだなって思った事は確か。」 「2回目は?4年前くらいか?」 「うん」 「それは水木が来た頃だね」 「…」 「でも川上と水木は違うだろ。」 「淳は…タケちゃんみたいには気を使ってくれないし、例えば慰めてくれるとしても、泣くまで待ってて、どうしようもなくなってから、しょーがねーなって言ってくれる感じだから」 「ははは。確かにそうだね。」  明子先生は笑いながら、紅茶のお代わりを注いだ。 「…で、ユカちゃんは、川上と同じように水木も離れて行くかもしれないのが、不安なのか?」 「違うよ…と思う」 「そうかなあ。私にはそう見えるよ」  明子先生はまた笑った。 「水木は、前に小屋立ててもらって庭に住むって言ってたよ、ユカちゃんが結婚しちゃったら」 「え?」 「番犬するんだとさ。水木は自分を大切にできない可哀相なヤツだから、多分ユカちゃん守ろうとする事でどうにか自分を保ってるんだ。一生守らせてやりなよ。じゃないと、自分で自分を壊してしまうかもしれない。」 「う…ん…。でも、明子先生。私、自信ないよ。そうやって淳にずっと守られ続ける自信ない」  由利香は目を伏せた。  なにか一つのものに思い入れをし過ぎるのは、それを失う時の事を考えてしまうととても怖い。そうやって考えてしまうのはまだ自分の気持ちにも自信がないせいなのだろうか。でもそんな自信なんて、持てる時が来るんだろうか。

 淳は朝からずっと屋上にいた。  屋上の、周りをぐるっと囲むブロックは一箇所だけ無くなっている。その隙間に腰を下ろし、足を空中にぶらぶらさせながらぼーっと森を眺めては、空を見上げ、また森に目を戻しの繰り返し。自分に何度も問いかける。この4年間、何をしてきたんだろう。    やっぱり、自分がはっきりしないからいけないのかも知れない。でも自分が由利香に何を求めているのか分からない。最終的にどうしたいのか考え始めると、いつも考えがごちゃごちゃになってまとまらない。  基本的にはスタートは真っ当だ。『結婚ってやっぱ全部過去とかさらけ出してからするべき』→『おれの過去なんて人に言えないくらいどうしようもない』→『結婚なんてするべきじゃない』→『由利香には普通に幸せになって欲しい』→『でも見守ってはやりたい』→『庭に小屋』という図式なんだけど、そんなの実現しないのなんて自分でも分かってる。第一相手が嫌がるのは確実だ。 「あーっ!もうっ!」  ばたんと上体を仰向けに倒して空を見上げる。4月の空は薄水色で、冬に比べると柔らかく温かみがある。最初にここに来たのも春で、なんだか何日もぼんやりとした天気だった。それも加わって、あの数日はそれまでの生活に比べてまるで夢みたいに感じられた。今はこのぬるま湯みたいな状態に、すっかり慣れてしまっているけれど。    陽射しは緩やかだが、さすがに真昼の光線は目には眩しい。目を閉じると、思わずうとうとしてしまう。 「おミズ」  数分うつらうつらしただろうか?自分を呼ぶ声にうっすらと片目だけ開けると、純がしゃがみこんで自分の顔を覗き込んでいるのが視界に入った。 「危ねえ寝方すんな。ほんと、いつか落ちるぞ」 「落ちねーってば」  面倒臭そうにまた目を閉じる。 「もう昼だぞ。飯食わねえのか」 「かったりぃ」 「えっ!」  純は驚いた声を出し、淳の額に手を置いた。 「んだよ」  淳はうっとうしそうにまた片目を開け、純の手を払いのけた。 「いや、熱あるかと」 「ねーよ」  上体を起こし、純の方を振り向く。 「おれだって、飯食いたくねえ時もあるよ」 「なんだか知らねえけど…」  純はポンポンと手で淳の頭を軽く叩き、 「あんま、悩むな。おまえが落ち込んでると、周り巻き込んでみんな暗くなる」 と言って立ち上がった。 「またそーやって人をガキ扱いする」 「むしろおミズは、もうちょっと自分がまだ大人じゃねえって事意識したほうがいいって。ガキでいいだろが」  それには答えず、また森に目を戻す。幾重にも重なった常緑の木々。外からは、奥に何が潜んでいるのかは全く見えない。 「おまえ、好きだな森。飽きないか?」  純には何が面白いのか分からない。森はいつも変わらなく、何時間見ていたって同じにしか見えない。淳の視線を追って、見ているらしき所を一緒に見てみるが、数分で音を上げる。はっきり言って飽きる。 「どこが…」  面白いんだと訊きかけて、淳の方を向き、その横顔に息を呑んだ。凍りついたような表情で瞬きもしないまま、一点を凝視している。ピクリとも動かない姿に、呼吸もしていないんじゃないかと心配しかけた時、 「…動いた…」 と低い声で呟くのが聞こえた。 「え?」  もう一度森に目を戻すがやはりいつもと変わらなく見える。 「何が動いたんだ?」  淳は純を見上げ、真剣な顔で 「森の奥で何か動いた」 と答えた。 「奥?兎とか住んでのか?」 「そんなんじゃねえ。もっとでかいもん。まるで…」  途中まで言って、言ってはいけない事を口にするかのようにためらって、言葉を区切る。両手で自分の肘をぎゅっと掴んだ姿は、まるで自分を抱きかかえている様だ。  「おミズ?大丈夫か?」  純はもう一度しゃがみこみ、淳と目線を合わせた。間近で見ると腕に鳥肌が立っている。 「まるでさ…」  目を伏せて視線を一瞬逸らし、再度純と目を合わせてからそれを口にする。 「森が動いたみてえに見えた」  そういえば誰かがそんな事言ってたっけと思い出す。ほとんどの人は単なる噂と受け取っていた。風だか動物だかが枝を揺らしたのを、誰かが大袈裟にしたのだろうくらいに。  「おまえが言うかよ、そういう事を」  淳は日頃およそ、非科学的、非現実的な事は考えそうにない。 「おれは、自分の見た事しか信じねえ。その代わり自分で見た事は、たとえそれがどんなに一見非常識でも信じる事にしてんだ。」  抱え込んでいた両腕を2,3度こすり、意を決したように 「見てくる」  と言って、視線を外し斜め下の大木に目を移す。3階建てくらいの高さがあるが、ここからは10メートル近くは高低差がある。 「え?ちょ…ちょっと待て、おまえ何する気だよ、ここ屋上…わっ!」  止める間もなく、いきなりその大木に向かって身を躍らせる。 「おミズっ!このバカっ!」   ザザッと大きく木の枝が揺れ、淳が両手でぶら下がり、木を伝って更に下に飛び降りるのが見えた。無事に着地した姿にほっと胸を撫で下ろすが、笑いながらこっちに手を振っているのを見ると、ふつふつと怒りが湧き上がってきた。 「おまえなあっ、どうしてそう無茶ばっかすんだよ!ちゃんと玄関から出ろよ」 「時間もったいねえ。行って来る」 「待てよ、おれも行く。一人じゃ危険だろ」 「時間もったいねえっていってるじゃん。待てねえから。じゃ」  片手を軽く振り、木の間を縫って行ってしまう。向こう側の壁を乗り越える姿は見えなかったが、森の一番手前の木の枝が揺れたところを見ると、多分またナイフでも使ったのだろう。  純は見える範囲の枝の揺れが治まるのを待って、ちょっと肩をすくめると、昼食をとりに食堂に向かった。

「じゃあ、細かくいつもの様子を聞かせて下さい。」  広い応接室。小雪の叔母は緊張した面持ちで、当時のボスであった落ち着いた感じの中年の男性と向き合っていた。  目の前のテーブルには冷え切ったコーヒー。まるで、今の自分の心みたいだと叔母は思った。 「この子は…」  近くのソファに木実と並んで座った小雪を見ながら、重い口を開く。まだ小さな2人は大人用の大きな肘掛のソファにすっぽりと2人で納まっていた。 「赤ちゃんの頃から何時間も何時間も、一人で大人しくしている事が多いんです。声をかけなければ、それこそ、いつまでも一人で遊んでいます。遊ぶと言っても、私には一体何をしているのか良く理解できなくて」  彼は興味を引かれたような顔になった。全国に情報網を持つスカウトから『見込みがありそうな子供』と紹介されていたが、内容は詳しく聞いていなかった。 「どんな事をしているのですか?」 「例えば積み木で遊んでいても…」  言いにくそうに、小声になる。 「手元を全く見ていないんです。それなのに、きちんと大きさの順に積み上げられて居たり、ちゃんとお城が出来ていたりするんです。目は真っ直ぐ前を向いたままなのに」 「なるほど」  彼は小雪の紅い眼を覗き込んだ。 「目は…見えているんですよね」 「それは、お医者様も大丈夫と。それに、この間なんて…」  ごくりと唾を飲み込み、ちょっとためらった後、意を決して続ける。 「庭に出ていたのですが、ちょっと目を離した隙に、マムシが出て。何しろ、山の中なので。私が見た時は、ちょうどあの子を狙っているように見えて、びっくりしてしまいました。慌てて駆け寄ると、マムシは小枝で串刺しになっていました。」 「ほお…。それは」  男の目がきらりと光った。叔母は更に話し続ける。 「蛇なんて、蛇の生殺しという言葉もあるくらいで、中途半端に突き刺してもいつまでも生きていますよね。それがピクリとも動かないで、あの子の足元に転がっていたんです。多分急所を突いたんじゃないかと思います」 「偶然では?」 「一度ではないんです。」  叔母は頭を振る。 「スズメバチとか、ムカデとか。毒があって危険な虫が何度も串刺しになっていました。」 「素晴らしい」  男は感じ入った様子で立ち上がり、ぱんぱんと両手を叩き合わせた。叔母に右手を差し出し、握手を求めながら、 「彼には産まれながらにして、鋭敏な指先の感覚と、自分が敵と感じるものを一瞬にして判断し、排斥する本能が備わっているという事だ。おめでとう。彼こそが私たちが求めていた人材だ」  叔母に握手を求める。手を差し出しながら、恐る恐る叔母が男に尋ねる。 「彼は、何になることを期待されているのですか?」 「暗殺者だ」  叔母は声にならない叫び声を上げた。
  
 

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