2.8. Come Back Where You Belong 〜part2
初めて小雪が仕事をしたのは、14才の冬だった。相手は中年のぶくぶく太った、いかにも不正な何かによって私腹を肥やしてそうな男だった。
それまでに何度か前任者に連れられ、その仕事ぶりを陰から見て、手順は頭に染み付いていた。
『嫌な仕事』だと思った。
でも、これが自分に与えられた運命だと諦めていた。
仕事自体は楽だった。日頃自分の足で歩く事もほとんどなかったであろう男は、取引をすませたマンションの部屋から、車を待たせてあった駐車場に行く間のエレベーターの中で、あっけないほど簡単に絶命した。おそらく、その鈍くなってしまった神経では、自分が刺されてから、死んでしまうまでの間に何が起きたか理解するのも不可能だったろう。
何度もシュミレーションを繰り返した、『暗殺』という仕事。小雪が成功した事により、そしてその鮮やかな手口により、小雪と木実が、Σ日本支部の正式な『ペア』として認められた。
気が付くと、自分の部屋に戻り、必死に手を洗っている自分がいた。洗っても洗っても、手には血がぬるぬるとまとわり付いている気がした。実際は返り血を浴びたわけでもないのに。指が小さく震えているのが分かった。
「ゆきちゃん…。上手くいったんだね?」
木実が後ろに立っていた。真っ白な新しいタオルを持っている。
木実を見て、ほっとするのが自分でも分かった。小さく頷くと
「そう…。すごく心配したよ。良かった、無事戻ってこられて」
と、木実はタオルを小雪に差し出した。小雪は黙って受け取り、血まみれに感じられていた手を、ためらいながら拭った。真っ白なタオルが血で染まるイメージを脳裏に描きながら。
でも、タオルは当たり前の様に白いままの姿を保っている。
真っ白なままのタオルを、信じられないような面持ちで眺めている小雪の顔を、木実が心配そうに覗き込む。
「大丈夫?」
「真っ白」
かすれた小さな声で小雪が呟く。
「うん。下ろしたてだからね。手、きれいになった?」
不思議だった。今まで両手に残っていた、気味の悪い感触が、きれいに拭い去られていた。指の震えも止まっている。
木実は小雪からタオルを受け取り、それをゴミ箱へと捨てた。
「捨てるの?」
「うん。こうしないと、このタオル見るたびに、ゆきちゃんいつまでも今日してきた事思い出しちゃう。何度も繰り返していかなきゃいけない事なのに、そんなのどんどん積み重なっていったら、辛すぎる。だから一回一回整理して、みんな忘れよう、ね」
最後の方は涙声になる。
「ゆきちゃん…ごめんね。辛い仕事させて。僕がそっちの仕事できればいいのに…ごめんね、僕が不甲斐ないから」
「ナッツの仕事は、できない」
小雪は首を左右に静かに振り、今、綺麗になったと自分で確信した手を伸ばした。細い指で、木実の涙をそっと拭う。
「うん、わかってる。でも僕は、ゆきちゃんが誰かを殺すなんて、考えるの辛いよ。仕方無いことだけど、辛い。代われるものなら代わりたい。だからせめて、罪の意識は僕が背負ってあげる。ゆきちゃんは何も考えないで集中して。ぼくが全部悩むから。」
頬に置かれた小雪の手に自分の手を重ねて、無理に笑顔を作る。
「ご飯…食べようか?」
そして、この日から、小雪の部屋の洗面台の引き出しを、いつも白いタオルでいっぱいにしておくのが木実の役目となった。
「いいじゃねえか、一緒に行ってくれよダーリン」
「やだ」
森の調査に行く事になったダニーは、淳にいっしょに行って欲しいとずっと付きまとっていた。当然その度ににべもなく断られる。淳としてはなるべく一緒に行動したくない。
「別に森の中に入るわけじゃないよ。あの森、この辺じゃ『魔の森』って言われてんだろ。そんなところに、おれの大切なRollyPopちゃんを連れてく訳に行かないだろ。付近に聞き込みするだけさ。おれ一人で行ったら不審がられるしさ」
確かに、スキンヘッドの外人の大男がいきなり近づいてきたら、大抵の人はビビる。
「へーきだって。4丁目周辺には結構あんたみたいなヤツごろごろしてるから」
「やな町だな」
「自分で言うなよ」
その答えはつまり、自分のビジュアルに問題があると認めていることにならないのか?
「おミズ、ちょっと」
再度断ろうとしていた淳を、純がダニーから見えないところに連れて行き、小声でアドバイスをする。
「いっしょに行った方が、好都合だろ。通訳してやればいいんだよ、自分の都合のいいように」
そういうのは得意なはずだが、返事は案の定
「やだ。ミネ行って」
「そんなの、いいっていう訳ねえだろ。おまえと出かけたいんだから」
純は、
「じゃ、ミネも一緒に行ってー」
と淳が腕にすがりつくようにするのを、振りほどきながら呆れ顔になる。
「何、甘えてんだよ。3人もでぞろぞろ聞き込みしてたら怪しいって」
「あいつ一人で十分怪しいじゃん。何人でもいっしょ」
確かにそういう考え方もなくはない。
「それもそうか…」
ちょっと一緒に行ってやろうかと考え始めたところに
「おい、何いちゃついてんだ」
としびれを切らしたダニーが不審そうな顔でやってきてしまった。
「いちゃつ…っ!」
いつものようにじゃれていただけなんだけど、見方によってはそう見えるのかと純は軽くショックを受けた。
やっぱりかなり淳のペースにはまってて、その辺が鈍感になっているのかもしれない。自分も周りも。
「だって、おれ達仲良しなんだもーん。だからおまえ、邪魔」
言いながら、淳は純の後ろに回りこんで身を隠すようにする。
「ひでえなあ、可愛いこまどりちゃんてば。少しはおれの方も振り向いてくれよ」
「おミズ…、やっぱ前言撤回。ダニーと2人で行って来い」
後ろに隠れている淳の両肩を掴んで、ダニーの前に差し出した。
「ちょ…ちょっと待てよミネ」
「じゃな」
「ひっでーっ、覚えてろよ」
スタスタと行ってしまう純の背中に、『人非人』だの『極道』だの悪口を投げつけるが、淳の口からそういう言葉が出るのには慣れっこの純には通用しない。
「可哀そうに、振られちまったな、さくらんぼちゃん。おれが慰めてやるよ」
純に気を取られて油断していた淳を、ダニーは嬉しそうに抱きしめて、頬を摺り寄せてくる。
「いらねーっっっ!」
じたばたともがく淳を、みんな怪訝そうに見ては通り過ぎて行く。
「てめーっ、マジで刺すっ!」
足元に手を伸ばし、仕込んであるナイフを取り出そうとすると、ダニーは気配を察し、淳を離して2,3歩後ろに下がる。
またもお手上げの格好になり、
「ほんっと、おっかねえヤツだな。見た目そんなにCuteなのになあ」
「おれの見た目はおれが選んだわけじゃねえっ!」
「もったいない事言うなよ。せっかく華奢な体に、ぱっちりお目目に、長い睫毛に、すべすべの肌に…」
淳の背中に、ぞわっと寒気が走る。
「描写すんなああっ!不気味ぃ!」
全身に立った鳥肌を治めるべく両手で腕をこするが、不快感はなかなか引かない。
「何をやっているんだ、水木」
後ろから呼びかけられたこの声は、よりによって、またも苦手とするある人物の声。苦手だ苦手だと思うと、それを向こうもかぎつけて、時々絶妙に嫌なタイミングで現れる。汀氏だ。
「ちゃんと、客人をもてなしてるか?君に会うのを楽しみにしていたみたいだが。」
穏やかな口調と裏腹に、明らかに面白がっているのが分かる。
しみじみとだからこいつは嫌なんだと思う。
嫌だ嫌だと思いながら振り向くと、案の定にやにやと笑っている。
前にはダニー後ろには汀氏。おれが一体何をした、と叫んで走り回りたくなるほどイヤーな状況だ。
汀氏は淳越しに
「何か、迷惑かけてるんじゃないか?」
とダニーに話しかける。ダニーはチラと淳を見た。軽くウインクを送り
「いや別に」
と答える。
淳は心の中で『へえ』と思った。てっきり、調査に付き合ってくれないと嘆くかと思ったのに。
ちょっとだけ、ダニーの『男気』みたいなものを見直す。
「そうか、それならいいんだけど。で、調査は?」
「午後から行こうかと」
また淳の方に視線を送る。
反射的に淳は視線を逸らす。
「そうか。誰か地理が分かる者が一緒に行けるといいんだが。あいにく私は用事があって。うちの弟をつけようか?もっともあいつは3時くらいにならないと、本来の判断力が戻って来ないからな」
「どうにかしますよ。ご親切にありがとうございます、Mr.Migiwa」
ダニーは丁寧に礼を返し、汀氏は
「そうか?私は用事があるから、行くけれど。せっかく来たんだから、ゆっくりするつもりでいたらいい。じゃ」
と言い残して、資料室の方に行ってしまった。
ダニーはそれを見送り肩をすくめる。
「なんだか、油断ならないって感じのヤツだな」
「へえ、分かるんだ」
またまた意外に思う。
単なる体が大きいだけの木偶の坊でもなさそうだ。まあ、そうじゃなかったら移籍した本部で、すぐに信用されて、日本に調査に送られる事も無かったろうけど。
「分かるさ。あの手には注意した方がいい。きっと何か企んでる。もし企んでなかったら、それはたまたまってもんで、きっと何かやらかすね。忘れな草ちゃんも、そう思ってんだろ」
「そーゆー言い回し、よせってんだろ。ご察しの通り、おれはあいつが大っ嫌ぇだ。部外者にいちいち言うべきことじゃねえのは分かってるけどさ。」
淳の言葉にダニーは満面の笑みを浮かべる。
「嬉しいなあ、信じてくれてんだ、おれの愛しのCreamPie」
「いー加減にしろよ。いくつバリエーションあるんだよ」
「それはもう星の数ほど」
「はぁぁぁぁっ。そーゆーの、ある意味ロマンティストっつうのか?」
「そりゃあもう、恋する男は愛する者のためなら、ロマンティストにもエゴイストにも殉教者にもなるのさ」
「…そうかよ。そりゃ良かったな」
もう何が何やら。
淳も、いい加減言葉で人を煙に巻くタイプだが、ダニーのそれはかなり本気が入っていると思われるので始末に終えない。本人多分自分の言葉に自分で酔っている。
「おれをこんなに夢中にさせるなんて、ホントにおまえは罪なオトコだぜ」
「知るかよそんなん。」
もう全身の力が抜けて、今すぐ倒れこみたいくらいだ。しかしここで倒れたら、ダニーの思う壺。きっと嬉々として、お姫様抱っこで良くて医務室、悪ければ多分自分の部屋に連れて行かれてしまうだろう。
とにかく今の受身の状態を打破しないと、いつまで経っても不利なままだ。守りに入ると弱い自分の性格は把握している。ここは強気に出て、攻めに入るしかない。
「ダニー、付き合おうか、調査」
淳の言葉にダニーは満面の笑みを浮かべ…た後、怪訝そうな顔になる。
「どういう風の吹き回しだ?4ッ葉のクローバーちゃん。今さっきあんなに嫌がってたじゃねえか」
「気が変わったんだよ。ま、早く調査済ませて、とっとと帰れってとこかな?」
「ひっでえなあ。でも、ま。おれはデートできて嬉しいよ。」
「デートじゃねえだろが。調査だろ、間違えんなよ。」
「同じ事だよ。愛しい人といっしょにいられるなら、内容はどうあれ、それはデートって事さ。正装に着替えて来ようかな」
ハードゲイの正装。それは素肌に鋲打ちレザーのベスト。
ダニーがそれを身につけた様子が脳裏に浮かび、とたんにげんなりする。
「頼むからそれは止めてくれ」
「え?おれのセクシーさに参っちまうからか?初心だなあ」
「初心っ!?それおれ、すっげー久しぶりに聞いた。まさか今更おれに向かって発するヤツがいるとは…。恐るべしハードゲイの腐れ眼力…」
「何言ってんだよ。じゃ、出かけるかあ」
ダニーは上機嫌で淳の手を掴んで玄関へと向かった。