2.8. Come Back Where You Belong 〜part4

 
  
    
     Φに戻ると、淳は食堂には行かず着替えてグラウンドに走りに出た。  イライラする時はこれが一番だ。  まだ少し頭はボーっとしているが、走っているうちに少しずつ回復するだろう。あまり何も考えないでとにかく走ろう。  ダニーの方はというと、食堂で純をつかまえていた。 「何か知ってるんだろう、おれに似た男に関して」  純は答えをためらった。話して良いものかどうか判断できない。 「今日、会ったんだ。大変だったぜ、子リスちゃんてば、風にそよぐスミレの花のように震えて、おれを訴えるような目で見て助けを求めて来たんだ」 「…ダニー…それ絶対脚色入ってるだろ」 「いや…まあ、大体そんなもんだったぜ、おれから見ればな」  「…会ったんだ…。」  会ったという言葉を反芻する。『あの男』に似たビジュアルのダニーと話さなければならないだけでも、淳はあんなに緊張していた。実物と会ったらどうなるのか、純には想像がつかない 「どうだった、あいつ」 「水面に浮かぶ花びらのように…」 「おまえの視点じゃなくて、客観的に見てどうかって事だよ!」  ぴしゃりと言い放つ純の強い口調に、ダニーは思わず姿勢を正した。  まじまじと純の顔を覗き込む。 「コワいなおまえ。目付き変わってるぞ」 「うるせえな。マジメに話す気ねえなら、行くぞ」 と半ば腰を浮かしかける。 「悪ぃ、悪ぃ。大事なダイアモンドちゃんのコトになると、つい理性が。恋心のイタズラだと思ってくれよ。そうだな…」  さっきの淳の様子を思い出そうとする。  「そうだな、とりあえず…吐き気がするって言ってたな。顔色真っ白で、ガタガタ震えてた。倒れるかと思ったぜ。そいつがいなくなるまで口もきけなかった。」 「そっか…。」 「『アオイ』とか呼ばれてたけど、聞き覚えあるか」 「今度はアオイかよ。いくつ名前持ってるんだ」  いろんな名前があるという事は、それだけいろんな事をしてたという事だ。そして本名を言いたくなかったという事でもある。 「あいつ、何してたんだ、あの『4丁目』ってとこで」 「知らない。教えてくれないんだ、あいつ。」 「おまえも知らないのか?」 「おれはそんなにあいつの事知ってるわけじゃねえ。おれも聞かないし」 「わりと他人行儀だな」 「そうかもな。」  今考えていることとかやっていることには、お互い干渉もするし、意見も出すが、過去の事はみんなあまり話さないし、触れようとはしない。ほとんどみんな何かしら隠しておきたい過去を背負っている。 「それは日本人の美徳ってやつか?」 「そうじゃないけど」  純は苦笑して答えた。 「ダニーだってあるだろ、言いたくない事」 「おれはないな。」  ダニーはキッパリと言い放った。 「なんだって話してやるぜ。なんでゲイになったかとか、過去の男の事とか」 「いや、いらないし」  すかさず否定しておかないとすぐにでも話し始めそうだ。現にとっても残念そうな顔で 「そうかあ」 と言っている。 「ところで、おミズどうしたんだ。食堂にいないよな」 「食欲ねえから、夕飯食わねえでとりあえず走るとか言ってたぞ」 「え?また走ってんのかよ。大丈夫か?フラフラだったんだろ。」 「おれも止めようとしたけどな、止められるもんじゃねえよな」 「それは、分かるけど…」  さっき見かけた天気予報を思い出す。雨が降るかもという予報が出ていた。まあ、走っているのはグラウンドだから、降ったら建物に入ってくれば良い事だけど、時々淳は雨が降ってもそのまま走っている事がある。陸上競技は雨が多少降っても中止にはならないのを言い訳にして。今日みたいに気持ちが萎えかけている時はますます判断力が鈍り、その可能性が高い。多分自分が出て行って、引きずってくるはめになるんだろうと覚悟を決める。 「ま、しょうがないか、好きにさせとくしか」 「おまえ、あいつに甘いな」 「よく言われる。」 「可愛がってんのか?」 「ペットかよ。大人しく愛でられてるようなヤツじゃないだろ」 「たしかになあ、噛んだり引っ掻いたりされそうだよな。まっ、そこがいいんだけどさ」 「そういう話か?」  その頃淳は、グラウンドを延々と走っていた。  何となく、肌に当る空気が湿っているのは気が付いていた。空も心なしか暗くなるのが早い。 「雨かあ…」  せっかく走り始めたのに、と思う。もっとも、もう5キロは走っているから、走り『始めた』というのは値しないが。 「ま、いっか。かんけーねえ」  とか言いながら走り続けて、今まで何度も熱を出し、その度に純に怒られている。でも、今の精神状態だと、熱が出るのと、このまま落ち着かない気持ちを抱えているのとどっちが良いかと言われたら、迷わず熱が出る方を選ぶ。  なるべく頭を空っぽにして、走っている距離と時間だけに集中するように心がける。少しづつペースを上げて行き、最後には走ることしか考えられなくなるくらい負荷をかけて行けば、雑念も払えるはず。  一時間ほど走っただろうか。  走るのに集中していた淳の足元から、かすかに地響きのようなものが伝わってきた。まだ明確に音として成り立っていないそれは、多分雷の前兆。 「ヤバイ…かな?」  由利香のところに行かなくちゃと思ってから、その気持ちを振り払うように頭を振る。  誰か代わりを見つけるって言っていた。  でも、長い間注意を払って暮してきている淳は、明らかに他の人より雷に対する予感が敏感だ。他の人がまだ気配も感じないうちに、遠くの雷雨を感じ取る事ができる。  …という事は、たぶんまだ誰も気が付いていない。雷なんて鳴り始めて、やっと気が付く場合も多い。 「約束したしな」  増えてしまった不安を抱え、それでもペースは落とさずに走り続ける。  ザワザワと苛立って来る気持ちを抑えながら。

 それからきっかり30分後、案の定雨は降って来た。  それも強烈な雷を伴って。  土砂降りの中玄関に駆け込むと、いきなり温の非難めいた目が待っていた。 「何してんの、おミズっ!雷鳴ってんのにっ!」  頭ごなしに怒鳴られて、ちょっとちょっとムッとする。  言い返そうとしたが、それより早く 「ユカ大変だよっ!」 と言うと同時に手を掴まれてしまう。そのまま由利香の部屋に向かおうとする温に 「ちょっと待てよ、おれ、びしょ濡れなんだけど」 と一応抗議はするが 「それどころじゃないでしょ!」 と一括される。歩いた後が水浸しになるほど全身濡れ鼠なのに。これでまた風邪引くのは確実だと頭の隅で思う。  部屋の前まで来たところで、ためらいを感じる。 「誰か付いてんだろ。おれ今、冷戦状態なんだけど」 と、温の手を振りほどくと、温は立ち止まりじっと淳を見ながら、 「おミズ、そんなに冷たいんだ。ユカだけには優しいかと思ってたのに」 と軽蔑を含んだような声で言った。 「言い出したのはあっちの方だぜ、だって。おれは大丈夫なのかって念を押した」   でもまさか、ピンポイントでこの間に雷が鳴るとは思わなかったけど。 「そんな事言ってる場合じゃないでしょっ!ばっかじゃないのっ!ユカの事心配なの!心配じゃないの!」 「っるっせーっ!あんたに言われたかねえよ!」  大声に純が自分の部屋から顔を出す。 「何の騒ぎだよ。おミズまたそんな濡れて。早く着替えろよ」 「ミネちゃん!おミズ怒ってよ!ユカが大変なのに、意地張ってんのよ!」 「え?ああ、雷…。」  そういえば由利香は雷が苦手なんだと思い出した。いつもは淳がフォローしてるんで、意識していなかったけど… 「ほんっとバカだな、おミズ」  言うが早いが、淳の首根っこを?まえて、由利香の部屋のドアを開け、有無を言わさず中に押し込む。 「ちゃんと面倒みてやれ。おまえの責任だろ」 「知らねえってば!」 「おミズ…。」  薄暗い部屋の中で、ベッドに横たわっている由利香の傍に付き添っていた花蘭が声をかけた。 「ユカ、見てあげてよ。私たちじゃだめ」  ため息をついて花蘭の肩越しに由利香を覗き込む。目は固く閉じたままで、体を胎児のように丸めている。全身がガタガタと震え、多分意識はない。額に冷や汗らしき物も浮かんでいる。 「ね?いつも、こうなるの?」 「いや…、雷鳴る前におれいつも一緒にいるし。ちょっと緊張するけど、バカ話とかして紛らわせてやり過ごしてる」 「一緒にいて…何してあげてるの?」 「手握ってるだけだって」 「ほんと?」  花蘭は疑わしそうな目を淳に向けた。 「ほんとだって。別に信じなくてもいいけど」  ベッドの脇に跪き、花蘭が握っていた由利香の手を代わりに握る。雨の中を走っていて体温が下がっているはずの淳の手のひらよりまだ冷たく、じっとりと汗ばんでいる。その感触に背筋にぞわっと悪寒が走る。 「大丈夫そう?」  花蘭の言葉に黙って、首を振る。肯定なのか否定なのか自分でも分からない。 「ユカ」  声をかけると、微かに手を握り返してきた気がした。  ちょっとだけ、安堵する。 「蘭ちゃん、タオル取ってくれない?おれ風邪引きそう」  雨に濡れてずっしりと重くなったシャツを片手ずつ抜き取って、床に投げ捨てる。花蘭は洗面台辺りをしばらく探していたが、やがて諦めたように 「駄目、わかんないね。自分の取って来る。待ってて」 とドアに向かった。 「うん。お願い」   花蘭の方は振り返りもしないでそれだけ答えて、意識を由利香に集中する。 「ユカ、聞こえる?ごめん、約束破った」  片手を握ったまま、もう片手を丸まっている背中に伸ばし、背筋をほぐすようにゆっくりと撫でる。 「雷なんてどうって事ねえじゃん。単なる自然現象なんだからさ。」  何度か繰り返すと、体の震えは止まり、背筋の緊張も緩んでくるのが手のひらを通して感じられた。  少し安心しながら、さらに話しかける。 「こんなでどうすんだよ、由利香。いつもおれが来られるとは限んねえぞ」 「おミズ」  花蘭と入れ替わりにタオルを持って来た純が声をかけても、聞こえているのか聞こえていないのか返事はない。 「タオル置いてくぞ。着替えいるか?」  相変わらず返事をしない淳の肩にタオルをかけ、濡れたままの髪を気にしながら、純は部屋を出る。  多分今、髪の毛拭けとか、ちゃんと服着ろとか言ってもまともな反応が返ってくるとも思えない。  なんだか、淳の意識まで由利香の意識に引きづられてどこかに行ってしまいそうで、不安になってしまう。 部屋の外では花蘭と温が心配そうな顔で立っていた。 「ユカ大丈夫そう?」 「多分。おミズ必死だし。」  危うく、必死すぎるんだけど、と付け加えそうになる。 「でも、雷まだ止まないね」  花蘭は不安そうに窓の外を見た。止むどころか、かえって近づいて来ている気さえする。 「私たちもいっしょにいた方がいいと思う?」 「どっちでもいっしょだな、きっと。あいつ今周り見えても聞こえてもいないし。」 「そ…そうなんだ」  開いているドアの隙間から、部屋の中を覗きこんでみるが、淳の後姿が見えるだけで由利香の様子はよく分からない。 「じゃ、2人きりのがいいのかな?」 「おれ、ここにいるから。何かあったら呼ぶよ」  長期戦覚悟で、ドアの前に腰を下ろす。 「ミネちゃんはおミズが心配ってことね」 「あいつ、自分の事は心配しねえから」
  
 

前に戻る 続きを読む